第2章 9
仕事始め

美代子さんの仕事机
翌日は何と島に出発した日と同じくらい風の強い日に逆戻りしてしまいました。テントも吹き飛ばされそうな強い風です。マイケルさんはテントを風の弱い森の奥深くに移しました。今日はバナナの島に行けないのは明らかです。朝食に昨夜の魚の残りを食べると、マイケルさんはかねての計画通り、小屋を建てる場所を探しに出かけました。美代子さんは、新しい教科書の執筆にとりかかることにしました。美代子さんはレオさんの作った長いテーブルの上に紙や鉛筆や参考書を出して並べました。風が大変強いので、あちこちに重石を置かなければなりません。
美代子さんは先ず、近くに立っている椰子の木の上の方を注意深く調べました。座って仕事をしている時に、上から重い椰子の実が落ちてきてはたまりません。島の持ち主のレオさんは用心深い商売人ですから、テーブルの周りの椰子の木からはきれいに実が落とされていました。パラオの人に聞いても、滅多に椰子の実が人間の頭の上に落ちるということはないようですが、ニアミスと言いたいようなケースは度々あるようです。直撃しないという保障はない以上、やはり用心しなければなりません。
美代子さんはペンを握って仕事に集中しようとしましたが、心はともすればあてもなくバナナのことを思い悩みます。考えたって仕方がないのだから仕事に集中しなければ、と思うのですが、ふと気がつくと一面に三角波の立つ騒がしい目の前の海原をぼんやりと眺めて、「バナナは今頃どうしているだろう」と考えている自分に気がつくのです。出発した日から、バナナはもう4日も食事をしていません。おなかがすいているでしょう。喉も渇いていることでしょう。溜まり水を見つけたでしょうか。虫でも見つけて食べているでしょうか。バナナは家にいた頃、ゴキブリを食べようとしませんでした。パラオのゴキブリは日本の倍くらい大きくて、美代子さんは大嫌いです。バナナがゴキブリを捕まえてくれたら助かると思うのですが、バナナは鼻の先をゴキブリが通ってもいつも知らん顔をしていました。きっと、ゴキブリはおいしくないのでしょう。今ならおながかすいて食べているかもしれません。あの島には多分鼠がいるでしょう。バナナは鼠を食べるでしょうか。美代子さんは今まで何匹も猫を飼ったことがありますが、中には鼠を捕らない猫もいました。バナナが鼠を食べるとしても、バナナが生き続けていかれるほど多くの鼠がいるでしょうか。あるいは、バナナはもう死んでいるのではないでしょうか。美代子さんは頭を振って、そんなことを考えてはいけない、と自分に言いきかせました。
その日、美代子さんはずいぶん仕事をしました。午後になって、美代子さんはちょっとおなかがすいてきました。島にいる間、二人は一日二食、朝と夜だけ食べることに決めていました。食事の用意というのは大変な手間です。冷蔵庫はないのですから、食べ物はすぐ悪くなってしまいます。昨夜のおいしい魚は、朝食で残りのご飯と一緒に全部食べてしまいました。朝食には、二人は一日一回の贅沢として、マイケルさんの持って来たとても小さい携帯用料理バーナーでお茶を淹れて飲みます。今夜は焚き火をおこしてじゃがいもでも焼くことになるでしょう。夕方には焚き火ができるくらいに風が収まってくれないと困ります。それにしても、マイケルさんはどこで何をしているのでしょうか。朝以来まったく姿が見えません。美代子さんは2時ごろテーブルの上を片付けて、マイケルさんが何をしているか見に行くことにしました。
美代子さんは、朝マイケルさんが歩いて行った方向にぶらぶらと歩き始めました。きっとマイケルさんは、小屋を砂浜の奥の木立が始まるあたりに立てようとしているはずです。美代子さんは浜と林が接するところを歩いて行きました。やがて、海からの砂浜が少し盛り上がった所に真新しい深い穴が二つ、間を置いて掘られているのを見つけました。柱を立てるための穴でしょうか。ずいぶん深い穴です。崩れやすい砂地にこのように真っ直ぐ落ちる小さな穴を掘るのは大変だったことでしょう。どうやって作ったのでしょうか。美代子さんはマイケルさんの姿を探してあちこち見回しましたが、近くの潅木の枝が強い風にがさがさ揺れるばかりで、マイケルさんが近くにいる気配はありません。遠くのほうまで建築材料を探しに行っているのかもしれません。ここはゆるく弧を描いて扇のように広がる砂浜のはずれで、すぐそこには岩山からせり出した巨岩が海に突き出しています。島に来た日に、美代子さんが海に胸まで浸かって巨岩の向こう側を見にいった、あの岩です。向こう側はマングローブの林になっていました。マイケルさんはどんな木を使って小屋を建てようと思っているのでしょうか。椰子の木は真っ直ぐ空に向かって立っていますが、あれを切るには電気のこぎりが必要です。マイケルさんの持っている小さな手斧では歯が立たないでしょう。林の中の潅木では高さが足りません。林の奥にはもっと大きい木が生えていますが、幹はぐにゃぐにゃと曲がっていて、小屋の柱になりそうな真っ直ぐな部分を見つけるのは難しいでしょう。考えてみれば、美代子さんはマイケルさんがどうやって小屋を建てるつもりなのかよく知りません。海からの塩気で釘はすぐ錆びてしまうので釘は使えない、だから丈夫なロープだけで材料を組み立てるのだ、ということを聞いているだけです。マイケルさんは島の持ち主のレオさんから、小屋を建てるための木を切り出す許可をもらってありました。
美代子さんは「さて、今のうちに焚き火に使う小枝や椰子の実の外皮でも集めておこうか」と考えて森に入っていきました。あちこちに木から落ちた椰子の実が半分砂に埋もれて根と芽を出しています。椰子の実というのはわずかに三角形のボール状で、非常に大きく重いのですが、中を割るとみっしりした繊維質のクッションに守られて、中心にはテニスボールより大きい硬い球形の核が納まっています。椰子の実が若い頃には、この核の中に美代子さんの大好きなおいしいジュースがつまっています。実がだんだん熟れてくると、このジュースはなくなって、そのかわりに核の内壁に硬いチーズのような白いものが厚くこびりつきます。人々はこの白い部分を大根おろしのような道具で細かく削ぎ落として、いろいろな料理に使います。大根おろし状の白いものを手でぎゅっと絞ると、とても栄養価の高いココナツ・ミルクと呼ばれる真っ白な汁がとれます。ココナツ・ミルクはどんな料理にも使える非常に利用価値の高い料理材料です。実がもっと熟れて根と芽を出す準備が整ってくると、この白い部分は硬く乾燥して繊維化し、球形の核の一方からは根が生えてきて地面に潜り込み、もう一方からは緑の芽が上に向かって伸びていきます。熟れて木から自然に落下した椰子の実の内部は、もうすっかり根と芽を出す準備が整っていて、全体が乾燥した繊維質の塊にすぎませが、全体に脂肪分が高く、乾燥していれば大変良く燃えて火持ちの良い焚き火の材料です。
美代子さんが、まるで冬ごもりの準備をするりすが木の実を貯め込むように、燃えるものをあちこちから集めてレオさんのテーブルの下に押し込んでいるところへ、マイケルさんが斧を持って帰ってきました。
「砂浜に掘った柱の穴を見たわ。柱にする木を見つけた?」美代子さんは尋ねました。
「うん、今日はまっすぐなマングローブの木を見つけて1本切り出したよ。」
「ふーん、切るの、大変だった?」マイケルさんは黙って肩をすくめました。大変だった、なんて言いたくないのでしょう。マングローブは硬い木ですから、細い木でもマイケルさんの小さい手斧で切るのは重労働だったはずです。
「それと、森の奥にピーマンとオクラの種を撒いておいたよ。ビタミンCが必要だからね。」とマイケルさんは言いました。美代子さんは、マイケルさんが野菜の種まで用意して持って来たとは知りませんでした。
二人は焚き火をおこす前にバケツ一杯のシャワーを浴びました。今日のように風の強い日には髪の毛の中まで砂が入り込むのでシャンプーをしたいところですが、美代子さんはシャンプーを持って来ませんでした。これから先、もし雨が定期的に降らなければ、 バケツ一杯のシャワーだってあきらめなければいけなくなります。
その日、二人の夕食は強い風を避けて細々とおこした小さな焚き火で焼いたじゃがいもだけでした。風は夜になっても収まらず、雲も出てきました。昨夜はあんなに見事だった満天の星も、今夜は見えません。この調子では、明日もバナナの島に行くことはできないのでしょうか。美代子さんは祈るような気持ちで眠りにつきました。


2010 - present
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オマエ、ゴキ?
いただきまーす