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第2章 10 
どこかにおいしい物はないか

 翌日も、その次の日も、そしてその又次の日も、強い風は吹き止みませんでした。何ということでしょう。普通、この時期は天気が穏やかで嵐になることも少ないし、雨も適当に降るという、無人島暮らしには最適な季節のはずだったのです。浜の前のラグーンはいつもほとんど波さえ立たず穏やかで湖のように見えますが、はるか沖のほうでラグーンを取り巻く環礁には、外海の強い波が打ち寄せて白い波しぶきが高く上がっているのが見えます。特に大きい波が当たるとド・ドーンという腹に響くような遠鳴りが浜まで響いてきます。環礁の向こうに見える大海原には白い三角波が一面に立っています。

  

 バナナのことを考えると、美代子さんは地団太を踏みたいような気持ちになります。バナナがいなくなってから、もう一週間経ってしまいました。美代子さんにはバナナがまだ生きているかどうかまったくわからなくなりました。もし水がなかったら、この暑さの中で一週間も生きていることはおそらく不可能です。あの島にはドラム缶がいくつかありましたし、中には水がいっぱい入っていましたが、美代子さんは猫がドラム缶によじ登れるとは思えませんでした。バナナは葉や石のくぼみに溜まった水を見つけて飲んでいるでしょうか。猫の祖先はアフリカの砂漠地帯に住んでいたと言われています。乾燥には強い生き物かもしれません。いったい、バナナはどうやって生きているのでしょうか。第一、まだ生きているのでしょうか。美代子さんはマイケルさんに「バナナはまだ大丈夫だと思う?」と尋ねます。マイケルさんは首をかしげて「さあ、どうかなあ。」と言うばかりです。

  

 しかし、美代子さんはバナナの心配ばかりもしていられませんでした。毎日海が荒れて漁に出られないために、美代子さんとマイケルさんの食事は炊いたごはんかじゃがいもに限られています。飢えて死ぬ心配はありませんが、何だか口寂しいのです。もうちょっと満足のいく食事ができないものかと、いつも考えてしまいます。世界にはふっくらしたお米のごはんやほくほくしたじゃがいもを満足に食べられない人がたくさんいるのですがら、不満に思ってはいけないと頭ではわかっていますが、胃袋は別のことを考えています。マイケルさんのピーマンとオクラの種には、毎日貴重な水を与えていますが、まったく芽を出す気配はありません。美代子さんは視線で芽をおびき出そうと、いつも一生懸命見つめるのですが、砂からは何も出て来ないのです。美代子さんは密かに、あの種は古くてきっと死んでいたのだろうと思いはじめています。

  

 日中吹き荒れる風も、日没頃から凪いできます。夜の海に漁に出るということもできないわけではありません。実際、パラオの漁師たちは好んで夕方から漁に出ます。夜の漁は涼しくて、日中の魚捕りに比べて体に楽だということです。しかし、夜間、魚を捕るためには海底を相当よく知っていなければなりません。魚の集まる大きな岩や珊瑚の塊のある場所をいくつも知っていて、水中電灯の限られた明かりの中で正確にそこに潜って行けるようでなければなりません。美代子さんもマイケルさんも水中電灯を持っていますが、このあたりの海底についての二人の知識では、夜の海に出て効果的な漁ができるとはとても思えませんでした。

  

 マイケルさんの小屋は着々とすすんでいました。マイケルさんは小屋の四隅に立てるマングローブの柱の切り出しを終えました。美代子さんは最初ずいぶん長い柱を切ったものだと思いましたが、深い穴を掘って柱を立ててみるとちょうど良い高さになりました。穴を掘って、細くても案外重いマングローブの柱を立てる作業は本当に大変でした。美代子さんは少しも手伝わないで、マイケルさんがふうふう汗をかいて仕事しているのを傍で見物しているだけでしたが、内心、こんなに大変ではあの心の中の無人島の二階家はちょっと無理だったかな、と考えを改めました。

  

 美代子さんの教科書作りもうまくいっています。なるべく早く下書きを終えて、原稿の清書に取り掛からなければなりません。この当時のパラオには日本語のワープロがありませんでしたから、美代子さんは手書きで全てのページを作らなければなりません。清書が終わったら、文部省はそれを一ページごとに写真に撮ってそれを紙に印刷します。ページを揃えて本に綴じるのは、美代子さんと生徒たちの仕事です。美代子さんの心積もりでは、夏休み中に印刷を終えて、新学期に生徒たちが集まったらすぐに製本に取り掛かれるようにしたいのです。まだ二ヶ月あるとはいえ、万事のんびりペースのパラオのことですから、どんなに急いでも急ぎ過ぎということはないでしょう。

  

 それにしても目下の問題は今夜の夕食です。美代子さんはテーブルの上を片付けて、マイケルさんに何か良い考えがあるかどうか聞きに行くことにしました。

  

 マイケルさんは小屋の場所にいませんでした。砂の上には太く長い竹が何本か並べてあります。島には立派な竹があちこちに生えています。斧で太い竹を切るのは難しかったのでしょう、切り口がギザギザです。美代子さんが、マイケルさんはどこかな、と思ってきょろきょろしていると、マイケルさんが長い竹をガサガサと引っ張りながら森から出てきました。

  

 マイケルさんは美代子さんを見ると、「ハイ、ミョーコさん。」と言って微笑みました。美代子さんとマイケルさんの会話は英語です。マイケルさんは美代子さんから日本語を習っているのですが、まだ会話が出来るほどにはなっていないのです。一方、パラオに来た頃にはすごく下手だった美代子さんの英語は、あっと言う間に上達しました。

  

 「何かおいしい物が食べたくない?どこかに食べ物、ないかなあ。」と美代子さんは言いました。斧で竹の枝を落としていたマイケルさんは、腰を伸ばして海を眺めました。このごろは潮が大きく、ちょうど引き潮の海はラグーンのはるか向こうまで水が引いています。島を取り巻く環礁には波が打ち砕けて、白いしぶきが高く上がっているのが見えます。マイケルさんは頷くと、「そうね、明日、海に出てみよう。」と、言いました。

 「でも、この天気ではカヌーは出せないでしょう?」

 「うん、歩いて行く。」

美代子さんは突然ひらめきました。

 「夜になると透明な小さい蟹が、たくさん浜に出て来るじゃない?私、どこかで、蟹というのはどんな種類でも食べられるって聞いたことがあるわ。あれをいっぱいつかまえてスープにしてみようか。」

マイケルさんは疑わしそうにしばらく美代子さんの顔を見つめていましたが、やがて軽く肩ををすくめて、「良いね、やってみよう。」と、言いました。

 「どうやったら捕まえられるかなあ。箒のようなもので叩いたらどうかしらん。私、何か作ってみるね。」美代子さんが言うと、マイケルさんは竹の枝を落としながら、黙って頷きました。

  

 美代子さんは森に入って、束ねたら箒の代わりになりそうな木の枝や古い椰子の葉などを拾い集めて、腕にいっぱい抱えて来ました。そして、マイケルさんの丈夫なロープを使ってしっかり縛り、箒のようなものを二つ作りました。さて、これであのちょこちょこ動く小さくて透明な蟹たちを捕まえられるでしょうか。美代子さんはもう舌なめずりをせんばかりでした。

2010 - present
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