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第2章 7 
バナナ探し

 翌日はますます風が収まって、カヌー日和というもいえそうな良い天気になりました。美代子さんとマイケルさんは、浜の奥に引き上げておいたカヌーを出して海に浮かべました。バナナの待つ島に行くのです。帰りには魚を捕ってこなければなりません。その日の朝ごはんで、家から持ってきたお弁当は全部食べ終ってしまいました。

 二人はカヌーを漕いで島を出発しました。まだ早朝ですが、海の上はもう大変な暑さです。太陽はギラギラと上から照りつけ、海面は無数の小さな鏡のように光を反射して美代子さんとマイケルさんの目を射ます。美代子さんは日本からパラオに来て三年目、マイケルさんはアメリカからパラオに来て二年目になります。何度も陽に焼けて、ずいぶん黒くなりましたが、今日一日でもっと焼けることでしょう。美代子さんはパラオでは日焼け止めのクリームのようなものを使っていません。このように暑いところでは、肌にオイルやクリームを塗るともっと暑苦しいのです。絶えず流れる汗を拭いていますから、顔には何をつけてもすぐ取れてしまいます。ですから美代子さんは化粧もしません。美代子さんは急激な日焼けで水ぶくれなど起こさないよう、今日はTシャツとショートパンツの上に長袖のシャツをはおりました。

 カヌーはしばらく遠浅の砂地の海を進みます。水は水道水のように透明で海底の白い砂地の上に光の縞模様を描いています。砂粒の一つ一つまで数えられそうです。このあたりは海草が少なく、海底にはいろいろな種類のうにや、大小の色鮮やかなひとでや、黒いきゅうりのようななまこが砂の上に転がっているのが見えます。このあたりの珊瑚礁の島は、海底から盛り上がった珊瑚の塊がだんだん大きくなって、何世紀もの間にゴミや砂がたまり鳥によって運ばれた種などから植物が育ち、少しずつ島の形になったものです。普通、大きい島の外側には防波堤のように丸く珊瑚の環礁が育ち、この環礁に守られてその内側には安全な砂浜と遠浅な湖のような海域、ラグーンができます。環礁の外側はドロップオフと呼ばれる深く落ち込んだ海で、魚の宝庫です。環礁には所々切れ目があって、海流はそこからラグーンに流れ込んだり出ていったりします。二人の乗ったカヌーは浜の前のラグーンを渡って、環礁の切れ目から外海に出ました。

 島の岬をぐるっと回ると、バナナのいる島が見えてきました。風がなく、海流に乗ってカヌーは面白いように速く海面を滑って進みました。海面のすぐ下には、所々海底から盛り上がった大きな珊瑚の塊が見えます。珊瑚が海面近くまで育っているところは、海水が明かるいエメラルド色や空色に輝いています。海が深くなっているところは、濃いブルーです。珊瑚の塊には赤や黄色のいそぎんちゃくがたくさんついていて、小さな熱帯魚がその回りを泳いでいます。珊瑚の塊は石のように硬く累々と重なって、一つの大きな岩のように育ちます。その中には魚やえびが隠れるのに適した穴が無数にあって、沢山の生き物が住みつき、まるで海の生き物の団地のようになります。カヌーで珊瑚の塊の上をスーッと音もなく通り過ぎ、上から生き物を観察するのは時間を忘れるほど素晴らしい体験です。海底は盛り上がって浅くなったり、深く落ち込んだりの起伏を繰り返しながら、次第に深くなっていきます。

 海面とほとんど同じ高さのカヌーの中から見ると、バナナの島はすぐそこに見えましたが実は案外遠く、その上レオさんの島とバナナの島を隔てる海峡には強い潮流がありました。カヌーは海峡にさしかかかると急に重くなり、美代子さんとマイケルさんが一生懸命口もきかずにオールを漕いでも、バナナの島にたどり着くのに一時間以上かかりました。やっと島に着いたときには、美代子さんは腕とあちこちの筋肉が痛く、太陽に焼かれてもうくたくたでした。カヌーを浜に引き上げ、二人は休む間もなく浜辺に近い森の中からバナナを探し始めました。昨日、ダニエルさんと三人で何度も探した場所です。美代子さんは、バナナは今日はおなかがすいているからきっと出てくるに違いないと思っていました。

 美代子さんはゆっくりと歩きながら羊歯の茂みに目を凝らして、何か動くものはないか、丸く黒い固まりはないかと探し回りました。森はだんだん深くなり、案外大きい木が育っています。足元の砂地は朽ちた木の葉に覆われ柔らかくふかふかです。所々、まるで誰かが切り開いたように潅木のない空き地があります。あまり方向感覚のよくない美代子さんは、じきにどこを歩いているのかわからなくなりました。時たま、木々の隙間から遠くを歩いているマイケルさんの姿がちらりと垣間見えることもありました。美代子さんの案に相違して、バナナは影も形も見せませんでした。森のどん詰まりまで行くと土地は急に盛り上がり、むき出しの岩が累々と重なって高く続いています。岩の上には潅木が濃く茂り、つたがからまって、枝を掻き分けて進むのも大変そうです。バナナはこの岩山に入ったのでしょうか。美代子さんは山に登ってみようと思いました。バナナを探すためならどこにでも行くつもりでしたが、それより岩山がどうなっているか興味があったのです。美代子さんは鼻の頭にシワをよせてうろうろと歩き回り、登りやすそうな場所を探しました。パラオには毒蛇や毒虫はいないということになっていますが、感じの悪いひるやくもはいるでしょう。美代子さんはどんな虫にあっても平気なつもりですが、くもはあまり好きではありません。美代子さんはついに覚悟を決めて首をすくめて深い藪の中に潜り込み、砂地からいきなり盛り上がっている岩を登り始めました。

 岩山の中には、いろいろな種類の木や草が濃く茂っているばかりでなく、足元の岩は大根おろしのように一面に鋭く尖っていました。これらの岩は大昔には珊瑚だったのでしょう。平らな面はまったくありません。岩は高々と重なり合い、美代子さんはよじ登るのに両手を使わなければなりませんでした。不用意なことに美代子さんはゴムぞうりをはいていましたので、何度も岩に足をぶつけたりこすったりして痛い思いをしました。その上ゴムぞうりの底はあまり厚くなくて、美代子さんは体重をかけても痛くない足場を探すのに一歩ごとに苦労しました。藪の中にはくもの巣がいっぱいです。木の枝やつるが視界をさえぎって見通しは悪く、この状態ではバナナが目の前の岩に座って挨拶してくれない限り、美代子さんのほうから猫を探すのはまったく不可能だということは明らかです。振り返るとずっと下のほうにさっきまでバナナを探していた砂地の森が見えます。美代子さんは岩山の上を見上げました。頂上はすぐそこのように見えます。美代子さんは猫を見つけるためというより、岩山の向こうに何があるか見たくてどんどん登り続けました。下の森の一番高い椰子の木よりもっと高く登った頃、美代子さんは岩山の上に出ました。美代子さんの見たものははるか向こうで急激に海に向かって落ち込む崖や、横のほうからぐっと突き出す濃い緑に覆われた大きな岬でした。この島は美代子さんが思っていたよりずっと大きいということがわかりました。遠くの海は波もなく青や緑に光っています。近くにある島々が重なり合って遠くの島々とつながっているようにみえます。美代子さんは、小さな黒い子猫を、木の濃く茂る山も岬もある大きい島で失ったのです。美代子さんはその事実を岩山の上に立ってつくづくと思い知りました。美代子さんはすっかり気落ちして、手足に擦りむき傷や打ち傷を作りながら下の砂地の森に向かって降りて行きました。 

2010 - present
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