第2章 6
無人島生活開始
日陰もない焼けるような砂浜には長くいられません。二人はこれからの生活の基地になる場所を探しに林の中に入りました。低い潅木が茂って気持ちの良い影を作っているあたりに、持ってきた荷物をひとまとめにして置くことにしました。マイケルさんはあちこち歩き回って、大きい石をいくつも集めてきました。そして砂地を掘って石を並べ、美代子さんが集めた木の枝を石の隙間に詰めて、しっかりした平らな床を作りました。その上に荷物を乗せて、そのまた上をすっぽりと防水布で覆いました。これでシャワーが来ても大丈夫です。シャワーというのは、さっと来てからりと晴れる短時間の雨のことです。毎日ではありませんが、パラオではよくシャワーが降ります。寝るためのテントは、もっと砂浜の近く、広々としたところに張りました。
雨水の溜まったドラム缶はいくつもありましたし、雨水もたっぷり入っていました。水の中には予想したように、落ち葉や小さな昆虫の死骸などが浮いていますし、ボーフラもわいていました。美代子さんは漏斗の内側にコーヒーを淹れる時に使うろ過紙を置いて、小さいバケツでそろそろと雨水を注ぎ入れ、漉されて下に出てきた水をプラスチックの大きいボトルに貯めました。出てきた水は一応透明ではありますが、よく見るとろ過紙では漉し切れなかった何か細かいものがたくさん浮いています。ろ過紙はじきにごみで詰まってしまいました。でもろ過紙はたくさん持ってきていますから大丈夫です。美代子さんは度々ろ過紙を新しいものに変えながら、辛抱強く雨水を漉す時間のかかる作業を続けました。コロールから何本もの大きいボトルにつめて持ってきた水道の水はもうすぐ飲み切ってしまいます。雨水を漉すのは、これからの生活で毎日しなければならない大切な作業です。
楽しかるべき無人島での第一日目ですが、バナナのことを考えると美代子さんは心が晴れません。猫は昼間は大抵寝て過ごしますから、今頃は森の羊歯の陰で丸くなって寝ていることでしょう。パラオには人や動物の命に関わるような毒をもつへびや昆虫がいません。その点、バナナは安全です。そして、あの島にはバナナより大きい生き物は多分いないでしょう。バナナにさしせまった命の危険はなさそうです。マイケルさんは気楽に「きっとバナナは案外のんきに自由を楽しんでいるよ。心配する必要はないんじゃない?」と言いますが、美代子さんの考えは違います。聞けば、マイケルさんは子供の時に短期間犬を飼ったことが一度あるだけで、ペットはそのほかには飼った経験がないそうです。美代子さんは、子供の時からいつも猫や犬や小鳥と一緒に育ってきました。ペットのいない生活は寂しいものだと思っています。特にバナナは手の平に乗るくらい小さい時から育ててきました。バナナは家から一歩も出ず、美代子さんと二人だけで家の中で生きてきたのです。バナナは、風にそよぐ木の葉や地面に映る影やごそごそ動きまわる虫について何も知りません。猫というのは大変注意深く臆病な動物です。昨夜は、たった一人で影や物音におびえ、寝ることもできずにドキドキしながら過ごしたのではないでしょうか。バナナが知っているのは美代子さんの家の中だけです。居間にはバナナのお気に入りのクッションがありました。バナナは、自分は今家から遠く離れたところにいるということが理解できていないでしょう。住み慣れたあの居間に帰ろうとするはずです。でもいくら探しても、あの島にバナナのふかふかのクッションはありません。美代子さんはバナナがかわいそうで、胸が締めつけられるように痛くなって、涙が出てきました。「待っていてね、バナナ。明日は行ってあげるからね。もう一日の辛抱だからね。」美代子さんは雨水を漉しながら涙をボロボロこぼして泣きました。
その日、美代子さんとマイケルさんはお昼ごはんを食べませんでした。二人は無人島では一日二食、と決めていたのです。火をおこすのは大変な手間ですから、料理は一日一回、夕食だけです。次の日の朝食でその残りを食べます。食べ物は暑さですぐ駄目になってしまいますので、前日の夕食の残りは朝ごはんで食べ切ってしまわなければなりません。もう今日から一日二食です。
その日、二人はこれから一ヶ月過ごすこの島をもっとよく知るためにあちこち歩き回りました。隣のバナナの逃げた島と同じに、この島も三日月型の白い砂浜が長く続いて、その奥は椰子の木やもっと背の低い潅木が生えた林になっています。足元は砂地です。この林は奥に行くに従って笹や松などの木が濃く茂って見通しも悪くなります。やがて土地が盛り上がり、急勾配で山になります。山は潅木とつたがからまり、簡単には入り込めそうもないジャングルになっています。三日月型の砂浜は、右も左も巨岩が岬のように山から突き出したところで終わります。美代子さんが砂浜のはずれまで行って、胸まで海水につかって岩肌の岬をぐるっと回って向こう側を見てみると、その先はマングローブの林になっていました。マングローブというのは海水でも平気で育つ木で、根を張ってどんどん塩水の中に進出していきます。何年も経つうちには海底の砂はマングローブの落ち葉で覆われ、それが朽ちて海底は沼化していきます。絵のように美しい南洋の真っ白な砂は、魚や貝などの海の生き物にとっては栄養価に乏しいのですが、マングローブの林では、海底は朽ちた葉が積もって魚やいろいろな海の生き物を育む栄養豊かな沼地に変わります。マングローブは非常に濃く茂るので、人は簡単には入り込めません。美代子さんは岩の岬の端から向こう側をのぞいたところで、砂浜に引き返しました。
浜に上がると体中が海水でペタペタしました。美代子さんは太陽が暖かいうちにシャワーを浴びることにしました。シャワーといっても、二人は石鹸を一個持ってきただけで、シャンプーは持ってきていません。手の平でドラム缶の腹をバンとたたくと、ボーフラが驚いて沈みます。そこで小さなバケツで水をすくいとって、Tシャツもショートパンツも着たまま、頭からその水をそろそろとかけます。シャワーは小さいバケツ二杯分の水を使って終わりです。雨が毎日降ってドラム缶の水を補ってくれるという保障はないのですから、水は大切に使わなければなりません。美代子さんは櫛で髪をとかして、大変気持ちよくさっぱりしました。マイケルさんもシャワーを浴びにやってきました。美代子さんは「気持ちよくなるよ。」と言って小さなバケツをマイケルさんに渡しました。マイケルさんは上半身裸でショートパンツだけです。きっとこれからの一ヶ月、ショートパンツだけで過ごすつもりなのでしょう。
砂浜のほぼ中央、椰子の木が何本も生えている下に、厚い木の板でできたしっかりした長いピクニックテーブルがありました。テーブルの脚は木の切り株です。これがこれから一ヶ月、美代子さんの仕事机となり、また二人の食卓となる場所です。テーブルの向こうとこちら側には板を渡しただけのベンチ式の椅子があり、何人もの人が座ることができます。美代子さんが食べ物の入ったビニール包みを広げていると、マイケルさんがシャワーを終えてやってきて「ミョーコさん、お弁当、まだ残ってる?」と聞きました。おなかがすいてきたのでしょう。「うん、ジャムとピーナッツバターのサンドイッチがあるよ。おにぎりだって最後の二個があるし。」マイケルさんは「フムフム」と頷きながらおにぎりに手を出しました。パンは何だか湿って、すでにカビ臭くなっていました。このように暑いところでは食べ物は長くもちません。美代子さんとマイケルさんはまだ明るいうちに、木のベンチに海が見えるように並んで座り、水を飲みながらモグモグとパンをほお張りました。おなかがすいていると、ジャムの甘さがすごくおいしく感じられます。この浜は南に面しています。太陽は正面に沈むわけではありません。傾いてきた陽光を受けて海面はスパンコールを敷きつめたようにキラキラ光っています。正面の非常に広い海峡のはるかかなたにはいくつか小さい無人島が見えます。そのまたずっと先には、ここからは見えませんが、ペリリュー島という相当大きい離島があります。千人以上の人が住んでいるでしょうか。この海峡はペリリュー島と首都のコロール島を結ぶ重要な航路になっていますが、今は船の姿はまったく見えません。頭上で椰子の葉がやさしくそよぎ、波がぽちゃぽちゃと浜に打ち寄せ、大変穏やかな夕暮れになりました。バナナはそろそろ美代子さんが帰ってくる時間だと思って、浜に出て沖のほうを見ているでしょうか。

2010 - present
2010 - present
バナナを思って泣く美代子さん