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第1章 5 
バナナ、逃げる

おやすみバナナ

 この島の砂浜の奥には、柱と床板とトタン屋根だけの簡単な小屋が立っていました。雨水の溜まったドラム缶もありました。もうとっくに夕食の時間は過ぎています。三人は小屋の床に座って、言葉も少なく持ってきたおにぎりとサンドイッチを食べました。美代子さんはまだしっかりとバナナのひそんだタオルを抱いたまま、片手でおにぎりを食べました。バナナは寝ているのか、相変わらずタオルの中でじっとしています。ごはんも欲しくなさそうです。バナナは美代子さんの与えた水をほんの少し飲みました。

 

 食べ終わると、ダニエルさんはボートとカヌーが流されないようにしっかり繋ぎに行きました。マイケルさんは懐中電灯をつけて平らな乾いた砂地を探してテントを張りはじめました。美代子さんも懐中電灯をつけて荷物の中をあちこち探して、丈夫なひもを取り出しました。夜の間、バナナをどこかにつないでおこうと考えたのです。

 

 最初、美代子さんはバナナをテントの中に入れて一緒に寝ようと考えたのですが、思い直したのです。バナナは今水を飲みましたから、きっと夜中におしっこをするでしょう。美代子さんは大変疲れていたので、バナナにおしっこをさせるために夜中に起きられるとはとても思えませんでした。美代子さんが起きてくれなかったら、バナナはテントの中でおしっこをしてしまうでしょう。それでは美代子さんとマイケルさんが困ります。美代子さんはバナナを膝の上に置いて、バナナの体にひもをかけました。バナナはおとなしく座ってじっとしていました。若いバナナの体は細くて柔らかく、すぐにするりとひもから抜けてしまいます。何度も試して、美代子さんはやっとなんとか体が抜けないくらいにきつく、そしてバナナが苦しくないようにひもをかけることができました。

 

 当初の予定では、ダニエルさんは二人をレオさんの島に送り届けたらその日のうちにコロール島に帰るつもりでしたから、泊るための支度をしていませんでした。それで、マイケルさんはダニエルさんに毛布を貸してあげました。ダニエルさんはその毛布にくるまって小屋で寝ることになりました。

 

 美代子さんはバナナをしばったひもをテントのすぐ近くの木に結びつけました。バナナは動かずに草の上に座っています。美代子さんとマイケルさんは歯をみがいてからテントに入りました。テントの入り口を閉める前に、美代子さんは首を出してバナナのいる方を見ました。黒いバナナの姿は闇に溶け込んで見えませんでしたが、バナナの金色の大きい目が二つ、じっと美代子さんをみつめ返しました。

 

 翌朝、美代子さんは目を覚ますとすぐにテントから頭を出してバナナを探しました。しかしバナナの姿はどこにもなく、木に結び付けられたひもが草の上にからまっているだけでした。美代子さんは息をのんで「しまった!」とつぶやきました。美代子さんはテントから這い出ると「バナナ、バナナ」となるべく優しい声で呼びながら、あちこち歩き回って猫を探しました。バナナはすぐそばのどこかにいるに違いありません。でも、バナナは出てきませんでした。バナナの毛並みは真っ黒ですから、草の下影にじっとしていたら、美代子さんにはとてもみつけられないでしょう。美代子さんはマイケルさんに猫が逃げたことを告げました。マイケルさんはバナナが美代子さんにとって大切なペットであることを知っていますから、ダニエルさんにも声をかけて美代子さんと一緒にバナナを探してあちこち歩きまわってくれました。でも誰もバナナの姿すら見ることもなく、バナナは完全にその気配を絶ってしまいました。

 

 その日は風もずっと静まって、晴ればれと明るく暑い、いつものパラオらしい日でした。三人は小屋の床に座って、朝ごはん代わりに昨夜の残りのおむすびを食べました。美代子さんはバナナを失ったショックで言葉も少なく、気もそぞろで食べ終わりました。早くバナナを探し出さなければなりません。マイケルさんもダニエルさんも起きたらすぐにレオさんの島に渡るつもりだったのでしょうが、美代子さんはバナナを置いてのこの島を去る気はありませんでした。二人とも美代子さんの気持ちを察して、早く出発しようとは言わず、一緒に周囲の潅木の林を歩き回ってくれました。この島は湾になった三日月形の砂浜が広がり、その後ろはぼさぼさと痩せた潅木の茂る林になっています。足元には羊歯がびっしりと生えています。砂浜を離れて奥に行くと潅木の数は多くなり、しっかりした森になっていきます。地面はまだ平らで砂地です。でももっと先の森の終わりまで行くと、土地は急激に盛り上がって急勾配の山になります。美代子さんはバナナが山に入ったとは思えませんでした。その手前の砂地の森でさえ、三人で手分けして歩き回っても短時間では全部見切れないほど広いのです。バナナは案外すぐ近くの羊歯の茂みに潜んでいるはずです。美代子さんがバナナの名を呼んで探しまわっていることをちゃんと知っているし、どこかから見ているはずです。これは何かのゲームなので、出て行かないで隠れていたほうが面白いのだと思っているのかもしれません。バナナは、出ていかないとどうなるかわかっていないのです。美代子さんはいらいらしてきました。昼近くまでバナナを探した挙句、美代子さんも、バナナのほうから出てこようとしない限り、人間が猫一匹を林の中で探し出すことはほとんど不可能だ、ということを認めざるを得ませんでした。ダニエルさんはコロール島で仕事があるので、なるべく早くコロールに帰らなければなりません。マイケルさんが静かに「美代子さん、もうレオさんの島に行かなきゃいけない時間だよ」と言った時には、美代子さんも、もっと探すと言うわけにはいかないし、たとえそうしてもバナナが出てくるとは限らないのだ、ということがよくわかって、マイケルさんの言葉に頷くしかありませんでした。よくわかっていても、美代子さんはバナナのことが心配で、ほとんど泣かんばかりでした。バナナは昨日から何も食べていないのです。おなかがすいているでしょう。しかしマイケルさんもダニエルさんも、じゅうぶん猫のために時間を使ってくれました。ダニエルさんだって都合があります。美代子さんは「明日また探しに戻ってこよう」と心に決めて、ひとまずレオさんの島に向かうことにして、未練がましく何度も林のほうを振り返りながらしぶしぶボートに向かいました。きっとバナナは羊歯の陰から美代子さんの出発を見ているはずです。美代子さんは毎日アパートを出てどこかに行って、そして夕方には必ず帰ってきてバナナに食事をくれたのですから、今回も昼寝をして待っていれば美代子さんは帰ってきてごはんをくれる、と思って平気でいるのでしょう。美代子さんは当初からレオさんの島に着いたらバナナを自由に放すつもりでした。自由にさせておいても、バナナは食事の時間になればおなかがすいて美代子さんの元に戻ってくるはずですから、それで構わない、と美代子さんは思っていたのです。でも無人島生活の最初の日に、それもレオさんの島に着く前に別の島でバナナをなくしてしまうなんて、何という予定違いでしょう。

 

 この浜から見ると、レオさんの島は、広い水路をはさんで向かい側にありました。こちらからは、島の後ろの木の茂った切り立った崖が見えるだけです。マイケルさんはもう手際よく荷物をまとめてボートに積み込んでいました。美代子さんは昨日と同じ横板に座りました。昨日一日、あんなにしっかり抱いていたバナナはもう美代子さんの腕の中にはいません。昼過ぎ、ダニエルさんの小さな赤いボートは、再びカヌーを引いて海に出ました。今日は三角波もなく、海の上はただ暑いばかりです。海の水はエメラルド色や濃い緑色にキラキラ輝いています。ボートはほどなく海峡を横切り、レオさんの島をぐるっと回って、向こう側の砂浜に着きました。この砂浜から、バナナのいる島は見えません。カヌーを浜に引き上げ荷物を降ろすと、ダニエルさんは一休みする間もなくそのまま今止めたばかりのボートのエンジンをかけました。「一ヶ月経ったら迎えに来いよ。忘れるなよ。」とマイケルさんが言いました。ダニエルさんは「覚えていたらね」と言って笑いながら手を振りました。小さな赤いボートはダニエルさんを乗せてだんだん遠くなります。やがて、ボートもダニエルさんも岬を回って見えなくなりました。美代子さんとマイケルさんは焼けるように熱くまぶしい真っ白な砂浜に、一山の荷物と共に残されました。これから、二人だけの一ヶ月が始まるのです。 

2010 - present
2010 - present

​ダニエルさんと赤いボート

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