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第1章 4 
嵐の船旅

タオルにくるまったバナナ

 レオさんの島は、美代子さんとマイケルさんの住むコロール島から大きいスピードボートでも一時間ほどかかります。とてもカヌーを漕いで行ける距離ではありません。そこで、マイケルさんはスピードボートの扱いや航路に詳しい友人のダニエルさんに頼んで、ボランテア事務所の所有するスピードボートでカヌーを島まで引いていってもらうことにしました。ダニエルさんはアメリカ人で、マイケルさんと同じようにアメリカ政府のボランテアで来ています。ダニエルさんは建築技師で、パラオで建築や工事に従事する人たちに技術指導をしています。背の高いマイケルさんより頭一つ分さらに高く、広い胸と長い脚をもった堂々とした体格の青年です。マイケルさんと同じくらい若いのですが、鋭い目、立派な鼻、引き締まったあごの大変いかめしい顔つきで、美代子さんはダニエルさんの近くに行くといつも威圧感を感じてしまいます。でもダニエルさんは本当は大変親切な人なのです。ボランテア事務所が所有するボートは木造でとても小さく、なぜか全体に真っ赤なペンキが塗ってあります。スピードボートといっても、まるで日本の公園の池にある貸しボートにモーターとプロペラを付けただけみたいに頼りなく見えます。あれでカヌーが引けるのでしょうか。

 

 やがて学校は夏休みに入り、二人の出発の日が来ました。美代子さんは朝早く起きて炊飯器でご飯をたくさん炊き、梅干のおむすびを作って、外側に塩をまぶして海苔でしっかり包みました。おむすびがたくさんできたら、次はサンドイッチです。ハムやソーセージでは、この暑さですぐ悪くなってしまいます。美代子さんは経験で、ピーナッツバターやジャムだと比較的日持ちがすることを知っていました。それで、ピーナッツバターとジャムのサンドイッチをいくつも作って紙で包みました。マイケルさんとダニエルさんは協力して荷物をボートに積み込みました。道具類や衣類や雑貨、美代子さんの文房具、テントなど、荷物は濡れないようビニールでしっかりくるんでひもをかけてあります。真ん中に腰掛けるための横板があるだけの簡単なボートですから、荷物は足元に置くしかありません。マイケルさんは飲み水を大きなプラスチックのボトルに入れて運び込みました。ダニエルさんは予備のガソリンのタンクを持ち込みました。美代子さんはバナナの面倒を見る係りです。バナナがボートの中でおしっこをしては困りますから、美代子さんはその日、朝からバナナに水と食事を与えませんでした。いつもと違う人々のあわただしい動きと緊張した雰囲気を察して、バナナは心配して金色の目を一杯に見開いています。バナナは生後八ヶ月くらいです。もう子猫の時代は終わって若い猫になったところですが、体はまだ小さく軽くしなやかです。出発の日、美代子さんはTシャツにショートパンツをはき、海風で寒くならないよう軽いジャケットをはおりました。最後に、バナナを大きいバスタオルでくるんでしっかりと胸に抱きました。美代子さんはペットを入れて運ぶためのケースのような便利なものを持っていなかったのです。カヌーは太くて長いロープでしっかりと赤い木造ボートの後ろに繋がれました。ダニエルさんはボートの舵をとるので後部に座ります。ダニエルさんもマイケルさんもショートパンツにTシャツ姿です。美代子さんはバナナを抱いて真ん中の横板にダニエルさんに向き合うように、ボートの進む方向に背を向けて座りました。荷物はダニエルさんと美代子さんの間の足元にあります。マイケルさんは一人でオールを持ってカヌーに乗り、海底から盛り上がっている岩や珊瑚の塊にカヌーがぶつかったりしないよう見張ることになりました。船着き場では暇なパラオの人たちが、大人も子供も周囲に輪を作って三人の出発の支度を興味深そうに観察しています。美代子さんとマイケルさんがどこかに出かけたニュースはすぐコロール中に広まるでしょう。朝早く出発するつもりだったのにいろいろ雑用があって時間をとられ、小さな赤いボートがゆっくりとカヌーを引いてコロール島を出発した時には、もう3時近くなっていました。

 

 その日は朝から風の強い日でしたが、海に出てみると海面には小さな三角波がいっぱい立っていました。向かい風です。小さな赤いボートは、一生懸命カヌーを引っ張って、いくつもの無人島の間をぬってヨチヨチと海上を進みました。騒々しくモーターの音をたてて波を一つ一つ乗り切って行きます。美代子さんは風上に背を向けています。美代子さんの短い髪は強い風でじきに全部逆立ってしまいました。バナナは美代子さんの腕にしっかり抱かれたまま、バスタオルから顔だけ出して目をギョロギョロさせていましたが、そのうちにタオルの中深くもぐり込んでしまいました。寝てしまったのか、怖くてじっとしていただけなのかわかりません。でも美代子さんは心からほっとしました。バナナがあばれてボートの中を走り回ったらどうしよう、と心配していたのです。風は耳もとでびゅうびゅうとすごい音をたてています。広い海域に出ると三角波は大きくなり、ボートが波にぶつかる毎に、どしんどしんと激しい振動が体に響くようになりました。次々とボートにぶつかって砕ける波のしぶきを浴びて、美代子さんのジャケットはじきにぐっしょり濡れてしまいました。美代子さんは体を丸めてバナナのひそんだタオルが濡れないよう囲い込みました。体が濡れて風が強いと体温を失います。美代子さんはだんだん背中から寒くなってきて、バナナの体温で暖かいタオルのかたまりをバナナごとますますしっかり抱きしめました。

 

 レオさんの島は、波さえなければコロール島からはこの小さい木造ボートでも一時間半くらいでじゅうぶん着くはずです。風はますます強くなってきました。空を見上げると、重そうな灰色の雲が低く垂れ込めてもくもく動いているのがわかります。美代子さんは雨になったら困る、と思いました。海上であう雨はとても冷たいのです。ボートはひたすら進みましたが、二時間経っても三時間経ってもレオさんの島には着きません。結局雨は降りませんでしたが、空はますます暗くなり、とうとう夕焼けもなしに早々と日が暮れてしまいました。月も星も見えない暗い夜になりました。この小さいボートには船の存在を他のボートに知らせる航行灯がありません。漁師はこのような波の荒い夜には海に出ませんから漁師の船にぶつかるという危険はないでしょうが、何かの用事でこの天候でも航行しているスピードボートがないとは言えません。夜間、海上をライトもなしに航行するのは大変危険です。

 

 波はだんだん大きくうねりだしました。小さなボートは一生懸命波と闘っていますが、先に進んでいるのか波に押し戻されているのかよくわかりません。美代子さんは時計を見るのを止めてしまいました。ボートから見ると、ロープで繋がったカヌーとその中にちょこんと座っているマイケルさんのおぼろな黒い影が、波の上に持ち上げられたり波間に沈んで見えなくなったりしていました。美代子さんはふと、危ないなあ、と思いました。このあたりはあちこちに海底から珊瑚の塊が海面近くまで盛り上がっているのです。注意深く水路を辿らなければなりません。でもこんなに波と風があっては、このあたりの航路に詳しいダニエルさんでも、水路をひろっていくのは容易なことではないでしょう。小さなボートは波に持ち上げられ、ドシンとばかりに波の谷間に落ち込み、また次の波に持ち上げられ、その上右左に激しく揺れます。脚を踏ん張っていないとボートの座席の同じ場所に座っているのも難しいほどです。ダニエルさんが時々美代子さんに向かって何か叫びますが、風と波とモーターの音で何も聞き取れません。きっと「大丈夫かい」と聞いてくれているのでしょう。美代子さんはその度に「大丈夫よ」というようにうなずくことにしました。

 

 コロール島を出てから四時間くらい経ったでしょうか。暗闇の中で、ダニエルさんが急にボートの方向を変えました。近くの島に向かっているようです。真っ黒な島がだんだん近づいてきます。美代子さんはこの島に何度も来たことがありました。半分砂浜、半分深い森で、レオさんの島によく似ていますが、レオさんの島より大きいようです。ダニエルさんはぐるっと島に沿って巡り、砂浜のほうに向かっています。波はだんだん収まってきました。やがてダニエルさんはゆっくりと湾状の砂浜にボートを乗り入れました。ここまで来ると波は収まって、穏やかなうねりがあるばかりです。砂浜の面している方角のためか、浜をぐるりと取り巻いている木々のためか、ダニエルさんがエンジンを切ると、そこには今までの風と波の喧騒がうそのような静けさがありました。美代子さんは、バナナの入ったタオルのかたまりをしっかり胸に抱いたまま、ダニエルさんに手を貸してもらってヨイショとばかりに膝までの浅い海に降り立ちました。ボートの揺れに合わせて長時間突っ張っていたので、脚が疲れてガクガクします。ずっと後ろのほうのカヌーからマイケルさんが降りて、遠浅の海に腰までつかってじゃぶじゃぶ歩いて来ます。ダニエルさんが「今夜はここで一泊しよう」と声を張り上げてマイケルさんに話しかけました。実はここまで来ればレオさんの島は海峡を越えてすぐそこなのですが、危険を冒す必要はありません。美代子さんもマイケルさんも、ダニエルさんの意見に賛成でした。三人とも波の動きに長時間体を翻弄されてすごく疲れてしまったのです。 

2010 - present
2010 - present

​嵐の空と波

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