第3章 23
鼠の綱渡り

外は真っ暗、バナナはいない
こうして美代子さんとマイケルさんの無人島暮らしは終わりました。美代子さんは一か月留守にして埃だらけになった家を大掃除し、バナナの砂箱を片付けました。汚れ物を洗濯して干す時に、美代子さんはバナナの歯型のついた洗濯ばさみを見つけました。島に行く何か月か前、バナナの歯は乳歯から永久歯に生え変わりました。歯が痒かったのでしょう、バナナは毎日お気に入りの洗濯ばさみをかじっていたのです。
美代子さんは学校に戻りました。生徒は夏休みでも、教職員は休暇の人以外はみな毎日出勤します。他の先生たちは、美代子さんが島でどんな生活をしたか細かく知りたがりました。みんな決まって、強制されたわけでもないのに無人島で暮らすなんて、外国人は本当に不思議なことをする、というような顔をします。美代子さんは何度も繰り返してバナナを失った話をしました。
校長のレミーさんは、お金がない、といつも口癖のように言うのですが、美代子さんが教科書を二巻作りたいという話をすると、さっそく文部省の許可を取ってくれました。美代子さんは夜も昼も教科書の仕事に没頭しました。昼間は学校の自分の教室で、夜は家で、わき目もふらずに仕事に集中しました。からかったり叱ったりする相手のバナナはいません。パラオにも小さなテレビ局があって、時々昔の映画などを放映していますが、美代子さんはテレビをもっていません。日本から持ってきた音楽のカセットテープがパラオの暑さですっかり伸びてしまったのを、飽きずに繰り返し聞きながら、ひたすら仕事をしました。(これはCDやコンピューターが市場に出る以前の話です。)マイケルさんが時々訪ねて来るのが、わずかな息抜きでした。
その晩も、美代子さんはスタンドの明かりで一生懸命、教科書の清書をしていました。虫よけの網を張った窓の外は漆黒の闇、美代子さんのいる居間だけが、小さな宇宙船のように明るく闇に浮かんでいます。やもりがうるさく鳴いています。美代子さんはパラオに来て初めてやもりの笑っているような不思議な声を聴きました。日本のひぐらし蝉とよく似た高音で、小さな体に似合わぬ大きな声です。外ではなくてどこか家の中にいるのでしょう。機嫌良く鳴いています。蠅や蚊を捕ってくれますから、美代子さんはやもりをいじめたことはありません。時々ぺたっと天井から机の上などに落ちて来て、びっくりさせられます。真珠のような大きさと光沢のきれいな卵を、家の中のあちこちに産み付けます。
美代子さんの目の端で何かが揺れ動きました。見ると、電気スタンドのコードが動いています。美代子さんは首を伸ばしてテーブルの端から垂れ下がったコードを目で辿って行きました。そして、何とコードに小さな鼠がぶる下がっているのを見つけました。このスタンドのコードは、テーブルから斜めに壁のコンセントにつながっています。この鼠は背中を下にしてぶら下がり、ピンクの手足でしっかりコードを掴んでブランコのように揺れながら少しずつ机の方にやって来ます。大きさは実験用に使う二十日鼠くらいですが、毛の色は灰色です。美代子さんはあまり面白かったのでしばらく見ていましたが、この鼠の努力ぶりではじきにテーブルの上まで辿り着いてしまいそうです。美代子さんは、持っていた鉛筆でパシリとコードを弾きました。小さな鼠はポトリと床に落ち、すぐ家具の後ろに走り込んで見えなくなりました。
美代子さんは必ずしも鼠が嫌いではありませんが、子供の時学校で習ったように、鼠が悪い病気の媒体になるならやはり困ります。最近、美代子さんの木の箸の先をかじったものがいます。美代子さんはこきぶりだろうと思っていたのですが、あれは鼠の仕業だと考えると納得がいきます。ごきぶりにしてはわずかにかじり痕が大きかったのです。美代子さんは、明日レオさんのスーパーへ行って鼠捕りを買って来なければならない、と思いました。バナナがいれば、こんなに恐れ気もなく鼠が家の中を横行するようなことにはならなかったはずです。

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ネズミの綱渡り