第2章 22
さようなら、無人島
とうとうレオさんの島を去って、コロールに帰る日がやってきました。穏やかな良い天気です。最後の朝食を終えて、二人は荷物をまとめました。テントをたたみ、食事道具を片付け、着替えや寝具をまとめました。ポニーテールのナンシーさんのハンモックも忘れずに木から外しました。一つのゴミも残さぬよう、二人は念を入れて砂地を掃除しました。カヌーは森の中から引き出して波打ち際に置きました。再びこれを引いてコロールに帰るのです。
ビニールでしっかりと包んでひもをかけた荷物を浜に並べると、マイケルさんは自分の小屋に最後の手を加えるために行ってしまいました。美代子さんは参考書を開く気にもなれず、森や浜辺を歩き回りました。二人のビタミンCになるはずだったピーマンとオクラにも最後の挨拶をしました。何かみすぼらしい緑色のものが生えては来たのですが、それがピーマンとオクラなのか、あるいは雑草なのか、美代子さんにはとうとうわかりませんでした。今ではゴムぞうりどころか革靴くらいに固くなってしまった燻製の魚も、残りをひもから外して森の中に捨てました。後は虫が思う存分食べることでしょう。
美代子さんはぶらぶらと歩いてマイケルさんの小屋を見に行きました。小屋は相変わらず骨組みばかりですが、三角形の屋根の梁も上がり、ちゃんと小屋の形になっています。マイケルさんは床を張り始めていました。竹を縦に半分に割って並べるのです。パラオではよくある床の造り方です。
「素晴らしい小屋ができたねえ。一ヶ月で出来上がると思ってた?」
「いや、無理だろうと思っていたよ。こんなに進むなんて思っていなかったくらい。」
「そう?竹で床を張って、それからどうするつもりだったの?」
「壁に背もたれのための竹をもっと組み込まなきゃいけないだろうね。背もたれの上はそのまま吹き抜けにして。あとは屋根を椰子の葉で葺いて・・・・そんなところかなあ。でも、ここにいる間退屈しないように、と思ってやってただけだから、どうでも良いんだ。」
「マイケルさんがここまでやったんだから、レオさんは後を続けて完成させるかしら。」
「どうかなあ。誰も手をつけないと思うよ。このまま朽ちて行くだろうね。」
「残念じゃない?こんなに汗水たらしたのに。時々コロールから戻ってきて、少しずつでも完成させたら?」
「いいや、そんな気はないよ。これで良いんだ。」
「ふーん、そう。」
「ミョーコさんの教科書も進んだ?」
「すごく進んだんだけど、でもまだまだ先が長いの。最初は一巻だけのつもりだったけど、どうしても初級と中級に分けて二巻作ったほうが良いと思うようになったのね。コロールに帰ったらすぐ校長さんに相談するつもりよ。」
「そうか、うまく行くと良いね。」
「ええ、問題は予算が取れるかどうかよね。」
もう休暇は終わりです。美代子さんもマイケルさんも、明日から仕事です。
そろそろ昼も近くなった頃、約束通りダニエルさんが例の小さな赤い木造ボートに乗って迎えに来てくれました。三人は握手して挨拶を交わしました。
「ここに来るまで、風はどうだった?強く吹いていたかい?」
マイケルさんはさっそく気になる点を質問しました。来た時のような強い風ではやっかいです。
「いや、今日は風も弱くて良い天気だよ。今日は問題ないよ。無人島暮らし、どうだった?良かったかい?」
ダニエルさんはボートの縁に腰をおろして脚をぶらぶらさせ、テキパキと荷物をボートに運び込んでいるマイケルさんに尋ねました。
「うん、楽しかったよ。」
「海から作りかけの小屋が見えたけど、あれって君が作った小屋かい?」
「ああ、そうか、君は見てないんだよね。この間ライアンやビルたちが来た時に、君は来なかったんだものね。見るかい?」
「うん。」
二人はそのまま小屋のある方に向かって歩き始めました。美代子さんはテーブルに頬杖をついたままベンチに座って、二人が何か話しながら歩き去っていくのを見ていました。急いでいるふうはまったくありませんが、背の高い二人の脚は長く、一歩一歩が大幅でどんどん進んでいきます。マイケルさんは背が高いですが、ダニエルさんはさらに首一つ高く、浜を歩いていく二人の姿は、じきに木々にさえぎられて見えなくなりました。
美代子さんは目の前の青々と輝くラグーンに目を戻しました。昨夜美代子さんとマイケルさんが月光の中で最後に夜光虫を楽しんだ海とはまったく別の海です。今でもこの透明な海水の中には、昨夜と同じ夜光虫が群れているのでしょう。単に、今は明るすぎて見えないだけです。あと何年いるかわからないパラオですが、もうこのような無人島暮らしをすることは、二度とないでしょう。楽しい一ヶ月だった、と美代子さんは思いました。美代子さんは、子猫のバナナを失って、一人でコロールに帰るのです。そして明日からは仕事。日々の忙しい生活が始まります。
やがてマイケルさんとダニエルさんが何か笑いながら帰ってきました。マイケルさんは荷物をボートに積み終わり、カヌーも来た時のようにボートの後ろにしっかりとロープで繋がれました。今日も、マイケルさんは一人でカヌーに乗って、カヌーが海面すれすれまで盛り上がっている珊瑚にぶつかったりしないように、見張ることになりました。今日の天気では、コロールまで帰るのは何の問題もないでしょう。
ボートはゆっくりと浜を離れ、ラグーンの浅瀬を横切って、ラグーンを取り巻く環礁の切れ目に向かって進んでいきます。振り返ると、美代子さんが毎日仕事をした木の下の大きなテーブルとベンチが、何やら人待ち顔にポツンと見えます。離れてから振り返ると浜全体が見渡せて、浜のはずれの木立を背に、マイケルさんの小屋が見えました。海から見るととてもよく目立ちます。あれで屋根があったら立派なものです。ボートのずっと後ろのほうで一人でカヌーに乗っているマイケルさんも、何度も振り返って小屋の方を見ています。
「美しいラグーンよ、透明な小蟹がいっぱいの白砂の浜よ、涼しい森よ、一ヶ月住まわせてくれて有難う。栄養不良のやせこけた山蟹たちよ、貧弱なウニたちよ、やっと生きていた貧しい命を奪ってごめんなさい。生きている時はきれいだったけど、干物にしたらまずかった魚たちよ、決して忘れないよ。」
美代子さんは万感の思いを島に捧げました。美代子さんの足元には、あの燃えるように暑かった日に、マイケルさんが一日かかって見付けたラグビーボールほどの淡いピンクのしゃこ貝があります。美代子さんはこれをコロールのアパートで大切に飾っておくつもりです。ボートはバナナの島のそばを通り過ぎました。
「さようなら、とうとう森から出てこようとしなかった愚かなバナナよ。短い間だったけど、一緒に生きてくれて有難う。」
ボートは風を切って進み、美代子さんの涙は出たとたんに吹き飛ばされました。バナナの島も視界から消えました。

2010 - present
2010 - present
さようなら、無人島!さようなら、バナナ!