第2章 21
夜光虫
美代子さんとマイケルさんの無人島暮らしも終わりに近づいてきました。風は頑固に吹き続き、風のない穏やかな天候になったのは、結局、島を去る前の一週間だけだったのです。風はともかくとして晴天続きで雨も適当に降りました。文句は言えないのかもしれません。
美代子さんとマイケルさんは、夕暮れ近くになると砂が雑草に覆われた気持ちの良い場所に座って、ものすごいばかりに美しい夕日を毎日のように堪能しました。貝の平皿に焚いたばかりのごはんを乗せ、まずい燻製をかじりながら「あの雲の形が良い」とか、海の色が夕焼けを反映して変わるのを批評したりするのですが、多くの場合、二人はただ黙って顎を動かしながら、どこまでも続く大空が激しく燃え上がったり、花園のように優しい色合いに変わったりする様子をほとんど呆然と眺めるのです。自然に対する畏敬の念がふつふつと湧き上がるひと時です。
ある風のない穏やかな暗い夜、美代子さんがテントの中で懐中電灯の光で本を読んでいると、外に出ていたマイケルさんが大声で「ミョーコさん、ミョーコさん」と叫びながら帰ってきました。美代子さんは懐中電灯を掴んで虫除けネット越しに外を照らしました。マイケルさんは浜の方から歩いてきます。
「なあに?どうしたの?」
「ちょっと出てきてごらんよ。すごい夜光虫だよ。」
夜光虫と聞いて、美代子さんはテントから飛び出しました。マイケルさんと一緒に浜辺に行ってみると、海は凪いで、小さな波がおとなしく浜に打ち寄せています。海は暗く静まり波のうねりすらなく、平らに空の星を写しています。音もなく押し寄せる波は砂浜に当たってわずかに崩れ、白いレース編みのような繊細な泡を立てます。シャラシャラと気持ちの良い音を立てて波が引いていくと、砂に取り残された夜光虫が波の形そのままに濡れた砂の上でキラキラ光ります。空には細い三日月がかかり、星のきれいな夜です。
美代子さんは水の中に一歩入って海水を蹴飛ばしました。くるぶしの回りや飛沫の飛んだ先一面が一瞬銀色に輝いてから静かにもとの暗い水面に戻りました。夜光虫は何かの力が加わって刺激を受けた時だけ光ります。下を見ると、水の中で夜光虫が美代子さんの足にくっついて光っています。海水は暗いのに、足の指一本一本がよく見えました。美代子さんは少しずつ海の中に入っていきました。手で海水をかき混ぜると、周囲の水が沸騰するようにうねりながら銀色に明るく輝きます。まるで水銀の中にいるようです。胸までつかる深さまで来て下を見ると、美代子さんが着ているショートパンツとテイーシャツにも夜光虫が一面にくっついて、暗い中にも布のシワが銀紙で織られたようにくっきりと見えます。腕を水から出すと、夜光虫はキラキラと光りながら、宝石の粒のように暗い海面に滴り落ちていきました。
マイケルさんがバシャンバシャンと騒々しい音を立てて海水をかき分けてやって来ました。夜光虫を光らせようと、海面を叩いています。マイケルさんの周囲一面が星屑のように銀色に明るく輝いて、それから静かに暗い海に戻ります。水中で動いているマイケルさんの彫刻のような銀の脚もよく見えました。海面の上に出ている胸毛にも飛び散った夜光虫が引っかかって光っています。美代子さんは平泳ぎで静かに沖に向かって泳ぎだしました。海水をかき分けて進む美代子さんの腕の周囲が輝きます。マイケルさんは花火のような飛沫を上げながらクロールで泳いでいます。この水の中には、一体何百億匹の夜光虫がいるのでしょうか。光る海水は大変幻想的ですが、考えてみると気味悪くなります。美代子さんは掌に海水をすくって虫が見えるか目を凝らして見ましたが、虫と思えるようなものは見えませんでした。しかし光の強さから推測すれば、この周辺一帯には夜光虫が非常に濃密に群れて漂っていることは確かです。夜光虫は光るから気がつきますが、海水の中には単に美代子さんが気がつかないだけで、光らない小さな生き物がもっともっとたくさんいるのでしょう。この夜光虫だって、おそらく今日の昼間からここの海に漂い着いていたはずなのですが、夜も更けて暗くなるまで見えなかったから気が付かなかっただけなのです。
マイケルさんが潜水して水の中を美代子さんの方に向かって泳いで来るのが遠くからよく見えました。美代子さんのすぐそばまで来て、マイケルさんはザブリとばかり海面から頭を出しました。髪の毛にも眉毛にも、まつげやあごの無精ひげにまで夜光虫が留まって、光ながら滴り落ちています。
「これ、きれいだけど、全部生き物よ。ちょっと気持ち悪くない?」と美代子さんは言いました。
「海水の中には、卵とかプランクトンとか珊瑚の胞子とか、いろいろいるのが普通じゃないか。あまり考えるなよ。」マイケルさんは笑いながら言うと、美代子さんの手を引いてもっと沖のほうに泳ぎ出しました。美代子さんは平泳ぎで進むマイケルさんの背中に乗って、亀のように首を持ち上げて周囲を見渡しました。遥かな星空も銀色、周囲の海水も銀色、マイケルさんも銀色です。マイケルさんがかき混ぜる海水は銀色に光りますが、離れた場所の海水は暗く重く静まっています。もしこの水の中を魚が泳いだら、ひれで海水をかき混ぜてすごくきれいに見えることでしょう。美代子さんとマイケルさんは、銀色のラグーンの中をあちらこちらと遅くまで泳ぎ回りました。夜光虫の群れは、数日後に二人が島を後にするまで、この浜辺から離れず、毎夜美代子さんとマイケルさんを楽しませました