第2章 20
虫と燻製
とにかく、燻製は見た目にはおいしそうに黄金色に、匂いも香ばしくできあがりました。美代子さんは魚の目に長い紐を通して洗濯物のように下げ、木の枝の間に張り渡しました。肉をちぎって食べてみたマイケルさんが、鼻の頭にシワを寄せて美代子さんを横目で見ます。美代子さんは笑って、「松の葉っぱの良い匂いが付いたね。刺身の分をとってあるから、今夜は刺身と燻製よ。」と言いました。
ちなみに、この燻製は日を追うごとに固くなり、2・3日後にはまるでゴムぞうりのようになってしまいました。二人は捨てるのはもったいないと思ってせっせと食べましたが、滞在が終わって島を出るまでに全部食べ切ることはできませんでした。
翌日、美代子さんはいつものようにテーブルいっぱいに紙や参考書を広げて仕事をしていましたが、何だか虫が多いのに気がつきました。蠅や美代子さんが名前を知らない虫がぶんぶん周りを飛び交い、美代子さんの集中を妨げます。この美代子さんが名前を知らない虫は、蠅位の大きさでよく見ると蜂のようにも見えます。パラオの海辺にはどこにでもいるなじみ深い虫です。普通は刺さないのですが、驚くと刺します。刺されると腫れていつまでも痛痒く肌に痕が残るので、美代子さんはこの虫が近くにいる時には、うっかり驚かせて刺されたりしないよう、注意深くふるまうことにしているのです。今日はこの虫が特に多いようです。美代子さんの髪の毛や腕にしつこく止まりに来ます。美代子さんはいらいらして、ついにぱたりと鉛筆を置いて立ち上がりました。原因はあの燻製に違いありません。
紐に通した燻製の魚が下がっている木の下に行ってみると、案の定、虫たちがぶんぶん飛び回っていました。燻製にはたくさんの虫がとまっています。美代子さんが顔を近づけてよく見ると、蠅は魚をなめるだけですが、あの名を知らない虫は何と燻製の肉をむしゃむしゃと食べています。見ているとすごい食欲で、耳をすますと実際にムシャムシャと音がするではありませんか。美代子さんはこの虫が肉食とは知りませんでした。燻製はどれもかじられてぼつぼつと小さな穴ができています。美代子さんは面白がって虫たちが肉をかじる様子を見ていましたが、そのうちに燻製のあちこちに小さな白い点々が付いているのに気がつきました。初めは風に飛ばされた白い砂粒が付いたのだと思っていたのですが、観察しているうちに、肉の上に一生懸命産卵している蠅を見つけてしまいました。白い点々は蠅の卵だったのです。虫たちが美代子さんの燻製を食べ散らかすのは許すとしても、蠅の卵をそのままにしておくわけにはいきません。日がたてば卵は孵化し、蛆虫が肉の上を這いまわることになるでしょう。それでは困ります。「これは許し難い」と、美代子さんはつぶやきました。何とかしなければなりません。美代子さんは森に入って適当な木の小枝を捜しました。燻製を、沢山の木の葉ですっかり覆ってしまおうと思ったのです。森には多くの木が生えているにもかかわらず、この目的にあった葉をつけた小枝はなかなか見つかりませんでした。美代子さんは小枝を拾いながら森の中をあちこち歩きまわり、とうとうマイケルさんの小屋までやってきました。
小屋は相変わらず骨組みだけですが、柱や横木が補強され、ますますしっかりしたものになっていました。マイケルさんは、今は床を作っているのでしょう。床を支えるための短い木が何本も砂に埋め込まれて、にょきにょきと立っていました。マイケルさんの姿はどこにもありません。小屋の周囲には、マイケルさんが森から竹を切り出した時に捨てた竹の小枝や先の細いところが一面に散乱しています。何と、これは美代子さんの当面の目的にぴったりです。美代子さんは竹の葉を集めて腕いっぱいに抱えて戻りました。そして燻製の紐に竹の葉を隙間なく引っ掛けて、魚をすっかり覆ってしまいました。この後、飛び回る虫の数は激減しました。