第2章 18
マイケルさん、魚をたくさん捕る
それからさらに何日か経ったある日、急に風が弱まりました。今までの強い風の名残りで、海面は完全に穏やかとはいえませんが、昨日までに比べれば格段の違いです。風が弱まったとはいえ、この海ではカヌーを漕いでバナナの島に行けないのは、今までの経験からして明らかです。しかし、近場で魚を捕ることはできるかもしれません。美代子さんとマイケルさんは最近ごはんかジャガイモしか食べていないので、何かおかずになるものが欲しいのです。二人は天候の変わらぬうちにと、朝食もそこそこにカヌーで海に漕ぎ出しました。ラグーンの外に出て、バナナの島が遠くに見えるあたりまで行って碇を下ろし、マイケルさんは銛を持って海に飛び込みました。いつものように、潜ったり浮かび上がったりを繰り返しながら魚を探していましたが、なかなか魚に出会えないようです。マイケルさんはだんだんとカヌーから遠去かっていきました。美代子さんは海に入らず、カヌーの真ん中に座っていました。まだ早朝とはいえ、もう太陽がギラギラと輝いて海面を照りつけています。美代子さんは強風続きで荒れている海に、最近嫌気がさしています。パラオの海はいつも穏やかで、鏡のように雲を映して静まっているのが普通なのに、美代子さんが無人島暮らしをしている時に限ってこんなに何週間も風が吹き荒れるなんて、どういうことでしょうか。
パラオの国は何百という小さい島が集まって、全体で細長い芋のような形を作っています。美代子さんが住んでいるコロール島はそのほぼ中央で、周囲は多くの小島に囲まれて内海になっています。美代子さんとマイケルさんが暮らしているこのレオさんの島は、それよりずっと南で、芋の形でいえば端に近いです。このあたりの海域では、この時期でも風が強くて当たり前なのかも知れません。
ふと気が付くと、遥か向こうのほうでぽっかり浮かび上がったマイケルさんが、手に持った銛を盛んに振り回しながら、美代子さんに向かって何か叫んでいます。風が声を吹きちぎるので、何を言っているのか聞き取ることができません。美代子さんの心臓は喉元まで飛び上がりました。何か事故でもあったのでしょうか。鮫がすぐ頭に浮かびましたが、鮫は南洋の海ではどこにでもいます。マイケルさんは鮫がいたくらいでは驚かないでしょう。何事でしょうか。
美代子さんは即座にロープを引いて精一杯の早さで碇を手繰り上げましたが、碇が途中で岩か珊瑚に引っかかって上がってきません。振り返ると、マイケルさんはまだ何か叫んでいます。美代子さんは咄嗟に、カヌーの底にあったバケツを掴んで、中に入れておいたシャツやタオルを出し、碇のロープをカヌーのともから外してバケツの取っ手にしっかり結びつけました。美代子さんの心臓は早鐘を打つようにドキドキしてきました。美代子さんは碇を海に残したままバケツをロープごと海に放り込むと、マイケルさんの方に向かって一生懸命オールを漕ぎ出しました。美代子さんの腕力は、カヌーを楽に操れるほど強くありません。カヌーは前に進むというよりは、あっちを向いたりこっちを向いたりするばかりです。それでもカヌーは少しづつ動いたのでしょうか、それともマイケルさんのほうがカヌーに泳ぎ寄って来たのでしょうか、美代子さんがしばらく歯を食いしばって死にもの狂いになってオールを動かしていると、マイケルさんの手が船端に現れ、続いて水中マスクをつけたマイケルさんの顔がその上に現れました。マイケルさんは笑っています。
「来なくて良いってどなったのに。聞こえなかった?」
「聞こえなかったわよ。」美代子さんはオールを止めて、思わず大声を出しました。「どうしたの?」
「あそこですごい魚の大群を見つけたんだ。大きな岩があって、その周りに魚が群れているんだよ。」
「なあんだ。私は事故でもあったのかと思ってすごくびっくりしたわ。」
「ごめん、ごめん。魚のいるほうにカヌーを持って行こうよ。」
「私、あわててたから碇をおいて来たのよ。ロープにバケツを結びつけて流してきたから、拾いに行ってくれる?碇が何かに引っかかって上がって来なかったの。」
振り返ると、プラスチックの青いバケツが海面に浮かんでゆらゆらと動いています。マイケルさんは持っていた銛をカヌーの中に入れると、バケツに向かって泳いでいきました。そしてじきにバケツと碇を回収して戻って来ました。そしてカヌーによじ登ると、注意深く海の中を確認しながらカヌーを漕いでいましたが、ある場所で碇を下ろしました。美代子さんは、カヌーの底に溜まっていた水でびしょびしょになってしまったシャツやタオルをかき集めて水を絞りました。美代子さんはいつも、シャワー用のバケツに乾いたタオルやシャツを入れてカヌーに持ち込むのです。事故ではなくて、ともかくひと安心でした。
マイケルさんは銛を持ってまた海に入りました。海中を覗いて顔を上げると、「いるいる!」と嬉しそうに叫んでいます。そして足ひれを海面に立てて、真っ直ぐ潜っていきました。美代子さんが見ていると、やがて銛の先にきれいなピンク色の魚を刺して浮かんできました。マイケルさんはカヌーに泳ぎ寄ると、魚を銛から外してカヌーの中に放り込み、また潜っていきました。
魚は20センチくらいで、すんなりしたピンク色の体に青い筋が1本通っています。なかなか美しい魚です。待っていると、マイケルさんがまた同じ魚を捕って浮かび上がってきました。美代子さんは魚の群れを散らしてしまうことを恐れて、海には入りませんでした。美代子さんは、珊瑚礁に群れる魚の主だった種類はだいたい知っているつもりでしたが、この魚にはなじみがありません。
鮫も美代子さんが良くなじんでいる魚のひとつです。珊瑚礁の海では頻繁に鮫を見かけます。たいていはゆったりと遠くを泳いでいます。美代子さんはあまり大きな鮫に出会ったことはありません。多分、一番大きいので二メートルくらいのものだったのではないでしょうか。海の中では何でも大きく見えるものなので、その鮫も美代子さんには巨大に思えて、出会った時にはびっくりしました。でも美代子さんが海の中で会って一番怖かったのは、鮫ではなくて大きな太ったまぐろでした。まぐろの特徴のある紡錘形の体形は力がいっぱいに漲っていて、それだけでギョッとするほどの威圧感でしたが、それにも増して、ぎゅっと結んだいかめしい口元と大きな目玉の顔つきは、美代子さんにはものすごく獰猛に思えたのです。鋭い歯を持った立派な鬼かますの大群に囲まれた時も、怖くて胸がドキドキしました。美代子さんは怖い映画を見たりして鮫は怖いものだという恐怖心をもっていますが、実際にパラオで人が鮫に襲われたという話は聞いたことがありません。
以前、パラオ高校教職員と文部省の役人の合同バーベキュー・パーテイーがありました。みんなで無人島の浜辺でバーベキューを楽しんでいると、50センチくらいの子供の鮫が波打ち際に泳ぎ寄ってきました。その時、ほとんどの人はバーベキューの火の周囲で飲んだり食べたりしていて、海に入っている人は誰もいませんでした。美代子さんは一人でちょっと離れたところで波打ち際の朽木に腰をかけて海を見ていたのです。海は浅く砂は真っ白で海水は透明にキラキラと輝いていましたから、ねずみ色の鮫がくねくねとこちらに向かって泳いで来るのは遠くからよく見えました。鮫としては子供だとしても、50センチもある魚がこんな浅瀬に向かって泳いて来るとはどういうつもりだろうと思って、美代子さんは目を凝らして見ていました。すると、ビール缶を片手に持った文部大臣が歩き寄って来て「見ていなさい」とでも言うように美代子さんに人差し指を立てて合図すると、その場から水中の鮫に向かって「エイッ!」と大音声を発しました。それは、剣道の裂帛の気合いにも似た腹の底から出た見事な一声でした。とたんに鮫はくるりと向きを変えて、沖に向かって文字通り一直線にぴゅっと逃げ去って行きました。体をくねくねさせるのも忘れて、矢のようにすっ飛んで行きます。よほどびっくりしたに違いありません。鮫は明らかに浜から発せられた気合いを聞き取ったのです。それまで美代子さんはこのお酒好きな大臣をあまり尊敬していなかったのですが、これでたいぶ考えが変わりました。気合いひとつで鮫を追い払える文部大臣なんて、かっこ良いではありませんか。それほど頻繁に人を襲うわけではないのに、鮫は必要以上に怖がられているようです。
マイケルさんはそれから一時間半あまりの間に、20匹以上の同じピンクの魚を捕りました。勿論、一度にこんなに食べられるはずはないのですが、美代子さんはこの魚を干物にしようと思いついたのです。南洋の強い日差しをもってすれば、干物など簡単にできるはずです。干物にすれば日持ちがするでしょうから、また風が吹いて島に閉じ込められてもよいおかずになるはずです。実のところ、だんだん風が強くなってきて、カヌーが波に持ち上げられたり波の間に沈んだり、気持ち悪くなりそうな動きを繰り返すようになってきました。

2010 - present
2010 - present
気合いでサメを追い払う文部大臣