第2章 15
山蟹捕り

カニと競争するバナナ
翌朝、美代子さんとマイケルさんは前の晩の残りのご飯で、醤油漬けのかつおを食べ切りました。残念ながら、この暑さでは一晩置いただけで、かつおはもう妙な臭いがしています。でもおいしさに変わりはありません。美代子さんは自然の恵みに熱烈に感謝しながら、最後の一切れを食べました。
その日も風はありましたが、少しましなような気がしたので、美代子さんは今日こそバナナの島に行こうと思いました。美代子さんはバナナはもう死んだのだと思おうとしています。でも、もう一度あの島に行かなければどうしても気が済みません。悪天候に阻まれたとはいえ、美代子さんがバナナを探しにあの島に戻ったのはたった一度だけなのです。もし、万が一バナナが何とかして生き延びていたとしてら、今度こそ出て来るかもしれません。出て来なかったら、本当にバナナは死んでしまったか、あの島の生活が気に入っているので出て来ないかのどちらかでしょう。それならそれで良いのです。この間バナナの島に戻った日には手にマメができてそれがつぶれて痛い思いをしましたが、もう大丈夫です。美代子さんは、もう一度、バナナの島に行きたいのです。
マイケルさんは悲観的です。
「ミョーコさん、バナナは出てこないよ。あきらめたほうが良いと思う。」
「そんなこと、行ってみなければわからないじゃないの。バナナは出てこなくたって、海に出れば魚だってつかまえられるし、無駄にはならないから行こうよ。」
美代子さんに手を引かれるようにして、マイケルさんはしぶしぶ腰を上げました。
しかし、海に乗り出してすぐに、美代子さんは風も海流も予想外に強いということを知りました。昨日、立ち寄ってくれたレオさんのスピードボートはいとも楽々と波を乗り越えて進んで行きましたが、やはりカヌーはまったく違う乗り物なのです。美代子さんとマイケルさんは一生懸命オールを漕いでバナナの島が見えるところまで行きましたが、もうそこまでが限界で、とても二つの島の間を流れる潮流を乗り切れそうにありませんでした。美代子さんはすっかり疲労困憊して気力が失せてしまいました。
マイケルさんはここで碇を下ろして魚をとることにしました。しかし美代子さんは、こんなに海流が強くては怖くて海に入る気がしません。一人でカヌーに残りました。そして、波に揺られて上がったり下がったりしているうちに、すっかり船酔いしてしまいました。これで3時間も4時間も待たされてはかないません。美代子さんがマイケルさんを探してきょろきょろしていると、いきなりマイケルさんの頭がぽっかりとカヌーの船端近くに浮かび上がりました。
「駄目だ。魚はまったくいない。」と言いながらマイケルさんはカヌーによじ登ってきました。美代子さんは思わず安堵の溜息をつきました。やれやれ、これで島に帰れます。島に戻ってカヌーを降りると、美代子さんの船酔いは治まりました。
バナナの島にも行けず魚も手に入らなかった一日でしたが、夕食の後、マイケルさんが山蟹を捕りにジャングルに入ろう、と言い出しました。山蟹というのは掌ほどの大きさの甲羅をもった陸に住む蟹で、大変味が良く、パラオではマングローブ蟹と同じように珍味とされています。
「この島に山蟹がいるの?!私、知らなかったわ。捕りかた、知ってる?」
「捕ったことはないけど、何とかなると思うよ。とにかく、行ってみようよ。」
「オッケー。行こう!」美代子さんは一人で夜の暗いジャングルに入る勇気はありませんが、二人なら平気です。
美代子さんはバナナの島でゴムぞうりで山に入った時、尖った岩で足を痛くしたので、今度はダイビングシューズを履きました。そして手袋をして、バケツと懐中電灯を持ちました。
この島の山は、入ってみるとバナナの島とは大違いでした。足元は岩ではなく黒々とした柔らかい土で、太い大きな木が沢山生えていました。山蟹は、土が崩れて木の根がむき出しになったようなところに、穴を掘って隠れていました。マイケルさんが懐中電灯の光を当てると、木の根がこんがらがった奥のほうに泥だらけの赤い蟹の体が見えます。山蟹は大きい蟹ではありませんが、それでも足までいれると15センチ以上になります。ハサミだって立派なものです。うっかり穴の中に手を入れるわけにはいかないでしょう。美代子さんは、浜辺の透明な蟹のように、この蟹もすごく深い穴を掘って住んでいるのかと思いましたが、棒で穴を突いて周りの土を崩すと案外簡単に捕まえられることがわかりました。多分、土の層があまり厚くないので蟹は逃げ込む深い穴を掘ることができなかったのでしょう。木の根が邪魔でどうしても捕まえられない蟹もいましたが、二人は2時間ほどでバケツに半分の蟹を捕まえました。蟹たちはバケツの中で怒ってガサゴソと音をたてています。気がつくと、二人は腕も膝も泥だらけでした。山を降りて浜に戻り、海水で体の泥を落としました。蟹が逃げ出さないよう、板切れでバケツにふたをして、先日食べたしゃこ貝を重しに置いて、二人は夜遅く疲れ切ってテントに寝に行きました。
翌日の朝、美代子さんがバケツをのぞいてみると、蟹たちは元気でまだ怒っていました。相変わらず風の強い日でしたので、マイケルさんは朝食の後すぐに小屋作りに行ってしまいました。そして美代子さんもせっせと教科書作りに励みました。
午後になると美代子さんの集中力は薄れて、あの蟹をどうやって料理しようかという疑問がしきりと頭に浮かぶようになりました。パラオの人はあの蟹を茹でて身をほぐし、ココナッツミルクとあえて、それを蟹の甲羅につめ戻して食卓に出します。特別な行事の時だけ作る、大変手間のかかる料理です。美代子さんは最初、茹でて蟹スープができないかと思いました。そうすれば身も汁も食べることができます。そのためには蟹をきれいに洗って、体についた泥を落とさなければなりません。美代子さんはバケツから蟹を一匹掴んで渚まで持って行きました。つるつるの甲羅は滑りやすくて、逃がさないためには指に力をこめてしっかり掴まなければなりません。甲羅以外はどこを触っても、蟹のハサミにつかまってしまいます。海水で泥をすすぎ落してからよく見ると、関節のあちこちには毛が生えていて、そこにまだ泥がいっぱいついています。これではスープを飲むわけにはいきません。蟹を先ず殺せば、茹でる前に体を隅々までゴシゴシ洗うことができそうです。美代子さんはベンチに腰掛けて、掴んだ蟹を顔の近くにもってきて観察しました。蟹を殺す、というのはいったいどうやるのでしょうか。魚なら頭を切り落とすとかできますが、蟹の頭とはいったいどこでしょう。美代子さんは残酷なことを思い巡らしながら蟹をじろじろと調べました。美代子さんの結論は、スープを諦めて、蟹を茹でて身をほじくって醤油で食べる、というものでした。
美代子さんが蟹の入ったバケツを海に持ち込んで蟹の泥をすすぎ落としていると、マイケルさんがやって来ました。
「ミョーコさん、ちょっと手を貸してくれる?」
「なあに?どうしたの?」
「屋根の梁になる木を上げたいんだけど、一人じゃどうしてもできないんだ。」
「どれどれ」
美代子さんが行ってみると、4本の柱の間には今では斜めに何本かの木が渡されてしっかりと互いに結び合わされ、いかにも家らしい形になっていました。なかなかのものではありませんか。美代子さんは感心しました。砂の上には長くてまっすぐなマングローブの木が何本か横たわっています。マイケルさんは今、向こう側とこちら側の両方から長い木を渡して真ん中に高く掲げ、屋根の形を作ろうとしているのですが、釘を使わないために木を支えながらロープを結ぶという作業が一人ではできないのです。
「私は何をしたらいいの?」
「僕が上に登って、この長い木の片方をロープで上の木に結びつけている間、木の端を下で持ち上げて支えていてくれる?」
そう言うと、マイケルさんは梁の上に登って行きました。ずいぶん重いマイケルさんの体重がかかっても、小屋の柱は互いに組み合わされてしっかりと立っています。美代子さんはますます感心しました。美代子さんとマイケルさんは、それから協力して日没までに屋根のための梁を何本か小屋の上にあげました。あげ終わって見ると、小屋はまだ骨組みだけですが、はっきり家の形になっていました。
「すごく立派にできたねえ。この調子ならもうすぐ完成ね。」
「いや、これからが大変なんだ。もっと補強しなきゃならないし、床を作るのもずいぶん難しいと思うよ。」マイケルさんは、それでもとても満足そうに答えました。
二人はそれから焚き火をおこして米を炊き、湯を沸かして蟹を茹でました。蟹は真っ赤に美しく茹で上がりましたが、期待に反してちっともおいしくありませんでした。第一、蟹は痩せていて身があまり入っていませんでした。二人は辛抱強く、細い脚の1本1本まで丁寧に身をほじくりましたが、努力の割りには報いは少なく、非常に時間をかけた夕食の後、二人は満腹になるというよりは、むしろくたびれてしまいました。蟹は脱皮を繰り返して育ちます。その度に太ったり痩せたりするのでしょう。今はそのタイミングが悪かったのかもしれません。あるいは、この島のジャングルには栄養のあるものが少なく、蟹はいつも痩せているのかもしれません。いずれにしても、二人は再び山蟹を捕まえに行こうという気にはなりませんでした。

2010 - present
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