第2章 14
レオさんのかつお
翌日も強風の晴天でした。マイケルさんは朝食を食べ終えると、さっさと小屋作りに出かけてしまいました。美代子さんはバナナは多分もう死んだだろう、と思うようになりました。もう一週間以上です。肋骨を浮き出させて砂の上に横たわる、黒い毛皮の哀れなバナナの死骸が目に浮かびます。バナナは飢えて死んで、他の生物の餌となるのです。あんなに可愛いがって育てたのに、短い命しか与えてやれませんでした。美代子さんは溜息をついて、教科書作りに精を出すことにしました。
その日の午後、思いがけない楽しいことがありました。島の持ち主でコロールでスーパーマーケットを経営している、あの笑顔を絶やさないビール腹のレオさんが訪ねて来たのです。その日は朝から沖を通るスピードボートの数が多く、美代子さんは今日は週末に違いないと思っていましたが、やはりその日は日曜日で、レオさんは友人とかつお釣りにこのあたりまで出て来たのです。レオさんは大変立派な真っ白のスピードボートを持っています。レオさんの美しい白いボートは、環礁の切れ目からラグーンに入り、そろそろと浅いラグーンを横切って渚近くで止まりました。誰のボートだろうと首を伸ばしてベンチから見ていた美代子さんは、ボートから降りてバシャバシャ海の中を歩いてくるレオさんと見慣れたコロールの人たちを見て、嬉しくなって渚まで走って出て行きました。レオさんと一緒に来たのは、レオさんと同じようにコロールでお店を経営しているビジネスマン二人と手伝いの若者二人でした。パラオでは政府の役人でも学校の先生でもお店の経営者でも、普段はほとんどがゴムぞうりにTシャツ姿で過ごします。海に出るとなれば、全員が着古した半ズボンにTシャツで、その恰好からはパラオの経済や政策を支える社会の重鎮だとはとても想像できません。
「ハイ、ミョーコさん。楽しくやっていますか。」レオさんは、いかにも商売人らしい人当たりの良いいつもの笑顔で、走り寄って来た美代子さんに話しかけました。
「ええ。島を使わせてくれて有難う。素晴らしい休暇になりそうです。」
他の人たちも美代子さんと笑顔で握手します。全員コロールでよく見かける顔ばかりですが、美代子さんは話をするのはこれが初めてです。
美代子さんは沢山の生徒を教えます。そしてコロールは小さな社会ですから、通りで会うほとんどの人が美代子さんの生徒の親だったり親戚だったりするのです。クラス担任をしない美代子さんは、生徒の親の顔を知りませんが、向こうでは美代子さんが誰だかよくわかっているはずです。美代子さんの高校はパラオで唯一の公立高校ですから、コロール島以外の島からも沢山の子供たちが来ています。こいう生徒たちは、普段はコロールにいる親戚の家などに住んで学校に通い、休みになると自分たちの島に帰ります。ですから、美代子さん自身はパラオ高校の教員以外にあまり知り合いはいないのですが、美代子さんのことをよく知っている人は、大げさに言えばパラオ中にいるのです。その上、美代子さんは当時、パラオに住んでいるたった一人の独身の日本女性でした。パラオ人は噂話が大好きですから、日本人の美代子さんとアメリカ人のマイケルさんが無人島で暮らしているなどというのは大ニュースなはずです。レオさんが見に来たのも無理はありません。
「レオさん、風が強くなかったですか?かつおは釣れました?」
「そうね、朝、コロールを出た時には静かな良い天気だったんだけど、このあたりに来たら少し風が強くなったね。ここはどうでした?今朝から風が強かったですか。」
「今朝からどころか、ずっと毎日強風続きですよ。カヌーで海に出ることができなくて困っています。」
「コロールのほうは毎日穏やかな良い天気ですよ。今日はピクニックの人たちがいっぱいこのあたりの島に来ているね。」
「そうですか。ここには誰も来ないけど。」
レオさんは「それはそうでしょう」という顔をして黙って微笑みました。美代子さんとマイケルさんの無人島暮らしは、思っていたより知れ渡っているようです。
無人島のバーベキュー・ピクニックはパラオ人の最もお気に入りの、そして最もパラオらしい娯楽です。美代子さんの高校の遠足も、先生たちの年に一度の慰安会も、無人島で行うバーベキュー・ピクニックが定番です。人々は鶏肉を前の晩からタレに漬け込み、タロイモをふかして準備をします。魚はその場で海から調達します。醤油と自生のレモンで作るパラオ風バーベキューのタレは、一度食べたら決して忘れられない絶品です。
「マイケルさんはどうしました?」
レオさんはテーブルの上いっぱいに散らばった美代子さんの紙や参考書をじろじろ見ながら尋ねました。
「小屋を建てていますよ。向こうのほうで。」
一同はぞろぞろとマイケルさんの小屋を見に出かけ、美代子さんはそれには付き合わずにテープルで仕事を続けました。レオさんたちはビールを飲んでしばらくおしゃべりをした後、出発していきました。
「かつお、食べますか?」出発の前にレオさんが美代子さんを振り返って尋ねました。
「ええ。」美代子さんはできるだけ上品に答えました。実は、美代子さんはレオさんの姿を見た時から、かつおをもらうことばかり考えていたのです。レオさんが合図をすると、若者の一人が船のクーラーボックスから捕れたばかりの青光りする丸々と太った美しいかつおを一匹取り出しました。50センチ以上ありそうです。一匹丸ごとでは、冷蔵庫のないここでは食べ切る前に悪くなってしまいます。美代子さんは半分だけ欲しいと言いました。若者はクーラーボックスのふたの上で鋭いナイフを使って器用に身を開き、背骨のついていない食べやすい半身を、美代子さんが差し出した昨日のしゃこ貝の皿の上に乗せ、気を利かせてレモンまで添えてくれました。
その日の晩ご飯のかつおの刺身のおいしかったこと、美代子さんは生涯、忘れないでしょう。舌がとろけるとはこのことでした。新鮮な刺身と一緒に食べるとご飯までが大変おいしく、美代子さんとマイケルさんは久し振りに満腹感を覚えるまで食べました。美代子さんは残ったかつおを醤油に漬けてビニールで包み、翌朝のためにとっておきました。

2010 - present
2010 - present
パラオのカツオ、美味しいヨ!