第2章 11
透明な小蟹
透明な小蟹は、本当にたくさん島の浜辺に住んでいるのです。脚の先までいれても美代子さんの手の平くらいの小さい蟹です。体は乳白色でほとんど透明のように見えます。夜行性で、夜が相当更けてくると浜一面に出て来ます。美代子さんは、蟹の出現は遅いから、捕まえても今夜のおかずには間に合わないな、と思いました。仕方がない、今夜はまたご飯だけです。
いつも早寝の二人は、その夜頑張って真夜中近くまで起きていました。美代子さんがここで早寝なのは、懐中電灯の電池を節約しているせいもありますが、本当は美代子さんは夜の無人島が怖いのです。昼間の強い風は普通日没前後から弱まりますが、それでも木という木、草という草がすべて暗い中でゴソゴソと動いて不思議な音をたて続けます。その上、美代子さんは夜起きていると、突如として後ろから誰かに見られているという強い衝撃を感じることが度々あるのです。振り向くのですが、勿論誰もいません。誰もいるはずがない、ということは頭ではわかっているのですが、それでも何かの視線を感じるのです。マイケルさんにも同じ経験があるかどうか尋ねたら、やはり無人島やジャングルでは、誰かに見られているという強い感じがすることが度々ある、ということでした。
美代子さんは、あの視線は理由のない恐怖心に駆られて自分の心が勝手に想像したものにすぎないんだ、と思っています。絶対的なまでに強大な自然の中にいると、人は本能的に自分の無力を悟り、その無力感が恐怖心を増幅させるのではないでしょうか。あの不思議な背後からの視線をジャングルに住む神々や悪霊の凝視と解釈するのは、とても自然なことだという気がします。後ろから睨んだりしないよう祭壇を作ってお願いすれば、とても心が静まるでしょう。このようにして古代の宗教は始まったのではないか、と美代子さんは考えました、ともかく、怖いのは嫌ですから、美代子さんは普段は早く寝ることにしているのです。
二人はその夜、砂浜と森の間の草地に座って、俄か作りの箒を手元に置き、言葉少なに辛抱強く蟹の出て来るのを待ちました。今夜の風は昼間に比べれば弱まったとはいえ、まだしっかり吹いています。頭上では椰子の葉が絶えず音を立てています。月はありますがムクムク動く雲がかかって、暗い砂浜にまだら模様の薄い影を落としています。
「ねえ、マイケルさん。今誰かが後ろから私たちを見ているような気がする?」美代子さんは聞いてみました。
「いや、そんな感じはしないね。ミョーコさんは?」
「私も今は大丈夫。きっと一人じゃないからだと思う。」
しばらくしてから美代子さんはまた聞いてみました。「ねえ、マイケルさん。この島には霊が住んでいるって、聞いたことない?背が高いんだって。」
「うん、知ってるよ。頭が椰子の木の上に出るほど背が高いそうだね。」
「そう。椰子の木の上に突き出た頭がすーっと動くんだって。こんな小さな島に住んでいる霊が巨人なんて、何だか変ね。巨人の霊と、小さな小人の霊と、出て来たらどっちが怖いかしら。」
「レオさんがね、作ったんだよ、その話。」
「本当?レオさんが実際に見た、って聞いたわよ。」
「レオさんが、見た、って言いふらしたんだよ。そうしたら他にも見た人が出てきたんだって。」
「レオさんは何でそんな作り話をしたの?」
「ここはきれいな島だからね、人がたくさん来ると島が汚れるから、それが嫌なんだって。レオさんは、変なものが住んでいる気味の悪い島だから行くのを止めよう、と人に思って欲しいんだよ。」
「そう。そう言っていたの?」
「うん。笑ってたよ。」
「なーんだ。夢がないわね。でも私にその話をしてくれた人は、本当に霊を信じていたみたいよ。」
「ジャングルとか島に霊が住んでいるという話は、たくさんのパラオ人が信じているよ。」
「レオさんはそれを利用したのね。でもやっぱり、ジャングルとか無人島って怖いなあ。私一人なら、たとえ安全が保障されてても、無人島暮らしなんてしなかったわ。」
しばらく考えてから、美代子さんはまた言いました。
「椰子の木の上からじっと見おろす霊より、私は草の陰とか、木の幹の後ろからじっと見つめる霊のほうが嫌だなあ。私の目線の高さにいる、というのが怖い。」
「そんなのいないってば。」
「うん。わかってる。」美代子さんはあまり確信のない声で同意しました。美代子さんも、霊なんていない、ということはわかっています。しかしそれと、見られている、というあの衝撃とは別です。
また会話が途切れて時間が経ち、やがて透明で小さな蟹が一匹一匹と砂浜の穴から出てきました。最初数匹だけだったのに、ポコポコと砂のあちらこちらから湧き出すように出てきて、透明な蟹はじきに広い浜辺いっぱいになりました。箒の一振りでものすごくたくさん捕まえることができそうです。美代子さんはジャングルに住む霊のことなどケロリと忘れて、目を皿のようにして砂浜を眺め渡しました。
美代子さんとマイケルさんは頷き合うと、そうっと立ち上がり、箒を抱えて抜き足差し足で草地から浜辺に出て行きました。すると何としたことでしょう、蟹たちは二人が砂浜に一歩足を踏み出したとたんに、全員ぴゅっと近くの穴に潜り込んであっと言う間に広い砂浜には一匹の蟹もいなくなってしまったのです。その速さといったら、まるで手品のようでした。二人はほとんど息を呑んで口を開け、目をパチクリさせて立ちすくんでしまいました。これは思っていたより手強そうです。仕方ありません、二人は草地に戻って腰を下ろし、再び蟹の出て来るのを待つことにしました。
二人は同じ失敗をもう一度繰り返しました。もう疑問の余地はありません。蟹たちには、木の枝の箒でひっぱたかれるのを待っている気などないのです。それでは、というので、二人は砂浜の真ん中、草地と渚の間くらいに立って蟹の出て来るのを待つことにしました。出て来たら直ちに箒を打ち下ろしてやろう、というわけです。じっと立って蟹を待つのは楽ではありません。しかし辛抱強く待っていると蟹はそのうち少しづつ穴から出て来ましたが、箒が届きそうもない遠くばかりで、二人の足元には一匹も現れません。美代子さんは待ちきれなくなって、走っていって蟹めがけて箒を打ち下ろしましたが、蟹の素早い動きには到底かないませんでした。もとから、美代子さんは身のこなしの速いほうではないのです。子供の時から、椅子取りゲームなどではたった一人椅子に座れないで残ってしまう子供だったのです。身のこなし、という点ではマイケルさんのほうがずっと俊敏でした。そのマイケルさんも、遠くの方であっちに走ったり、こっちに走ったりして箒を打ち下ろしているのが見えましたが、やはり蟹を捕まえることはできないでいるようです。二人はじきに、この方法で蟹を捕まえるのは無理だということを悟りました。
マイケルさんはどこかから棒を持ってきて砂浜を掘り返し始めました。美代子さんは、今度はうまくいくかな、と期待しましたが、驚いたことにどんなに深く掘っても蟹は一匹も出て来ません。あんな小さな蟹なのに、ものすごく深い所に住んでいるか、あるいはマイケルさんの掘るスピードよりずっと速く穴を掘って逃げることができるか、どちらかです。しまいにマイケルさんは疲れて、「やーめた」と行って棒を放り投げてしまいました。骨折り損のくたびれ儲けとはこのことです。何時間も浪費して二人はすごく疲れてしまいましたが、同時に何だかおかしくて一緒にケタケタと笑いながらテントに寝に行きました。島の霊も椰子の木の上から一部始終を見て、一緒に笑ったでしょうか。

砂カニと島の神
