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第1章 2 
カヌーで夕陽見物
洗濯ばさみとバナナ

 美代子さんは一日中、学校で授業をしたり教材を作ったりテストの採点をしたりして過ごします。 パラオ政府は美代子さんのために学校のすぐ近くにアパートを用意してくれました。政府の職員ばかりが住んでいる大変安全なアパートです。美代子さんはここに一人で住んでいます。正確には、一人ではなくて一匹の真っ黒な猫と一緒に住んでいるのです。黒い猫はまだ一歳くらいの雄猫で、ほんの赤ちゃん猫だった時に美代子さんが近所のパラオ人からもらったのです。美代子さんはこの猫にバナナという名前をつけました。美代子さんはバナナを外に出さず、家の中だけで育てました。その頃、パラオではペットフードなどは売られていませんでしたから、美代子さんは自分で毎日魚や野菜で猫用の食事を作ってバナナを育てていました。バナナは、美代子さんに洗濯挟みを放ってもらうのが大好きでした。追いかけていって洗濯挟みをくわえて美代子さんのところへ持って返ると、美代子さんは又洗濯挟みを投げてくれます。バナナは飽きずにこの遊びを繰り返しました。

 

 美代子さんの住んでいるコロールの町には小さい雑貨店や、もう少し大きくてスーパーマーケットと呼べるような店が何軒かあります。そのような店では船で輸入された缶詰や冷凍の肉やパンを買うことができます。日本からの品物も多く、インスタントラーメンや味噌なども売られています。船着場には漁協の大きな冷凍庫が建っていて、そこではパラオの漁師が獲った新鮮な魚を買うことができます。 コロール島以外の島には商店は非常に少ないので、他の島に住む人々は毎日の食料を自分の畑や近くの海から捕れたもので賄っています。そして、時々スピードボートでコロールにやって来て、必要な雑貨を買って帰るのです。コロールの町は小さいですが、パラオの他の島から来た人々がいつも街角で情報交換のおしゃべりをしています。

 

 美代子さんは、時々醤油とわさびで新鮮なイカのさしみが食べたいなと思います。そんな日には、美代子さんは学校が終わると急いで家に帰って、釣竿と擬似針と小さなバケツを持って車を運転して船着き場へ行くのです。コロール島にはいくつか船着き場がありますが、美代子さんのお気に入りは西の船着き場の端です。ここからはイカを釣りながら美しい夕日を楽しめるからです。コロールは海に囲まれていますが海辺のほとんどはマングローブの林に覆われていて、そういう所では釣りをすることは不可能なのです。船着き場の水面近くには20センチくらいの小さいイカが泳いでいます。イカはキラキラと光る擬餌針に抱きつきます。擬餌針は先が鋭く曲がっていますから、抱きついたイカは足が絡まって、そのまま釣り上げられてしまうのです。イカは利口で良く学習しますし美代子さんは釣りがへたですから、一匹も釣れないことが度々あります。イカは透明になったり薄紫やピンクになったりと、体の色を変えながらコンクリートの岸壁近くを泳いでいます。時々、体を膨らませて丸く黒い目玉を剥きだして水の中から美代子さんをじっと見つめます。

 

 パラオ人たちもイカを釣るために、ここに来ます。護岸には何人もの釣り人が間隔を置いて椅子に座ったり護岸に腰掛けたりして釣り糸を垂れています。そしてほとんどの人が子連れで来ますから、周囲には子供の遊び声がいつも響いています。街灯もなく人通りも少なく、日が沈んだら真っ暗になる殺風景な船着き場ですが、家族連れの近くにいれば人々の目が行き届いていて安全なのです。

  

 コロール島の周りには沢山の小さな無人島があります。船着き場から見ると島々は航路の向こうの水平線でつながって一つの大きい島のように見えます。でもボートで近くに行けばわかるのですが、それらはこんもりと緑の木々に覆われた小さな島々なのです。美代子さんがイカと知恵比べをしているうちに、太陽は真っ赤に海と空を焦がして島々の向こうに沈んでいきます。そうすると美代子さんはいつもイカ釣りを忘れて、この強烈な日没に見入ってしまうのです。

  

 美代子さんにはマイケルさんというアメリカ人のボーイフレンドがいました。美代子さんと同じ黒い髪に黒い目です。背が高く、巻き毛の黒髪はくるくると顔のまわりに逆巻いています。マイケルさんはアメリカ政府から派遣されたボランテアで、パラオで経済活動が正しく発展するよう、商店や会社に帳簿の付け方やお金の扱い方を指導する仕事をしていました。マイケルさんはパラオ人のホストファミリーの家に下宿しています。そして、マイケルさんはカヌーを一そう持っていました。島のお年寄りから買ったもので、最初あちこちが痛んでいたのをマイケルさんが一人で長いことかかって少しずつ修理したのです。カヌーの長さは5メートルくらいありますが、幅は狭く人間一人がやっと座れるだけの幅しかありません。これだけでは幅が狭過ぎて波の上ですぐひっくり返ってしまいますから、カヌーの片側に横木が張り出していて、これがカヌーの浮きの役目をしています。この海域で昔から使われているアウトリガーと呼ばれる形のカヌーです。でもパラオの人は今ではモーターのついたスピードボートの方が好きなのです。スピードボートならどこの島へも簡単に行くことができますが、カヌーでは一生懸命自分でオールを漕がないとどこへも行けないからです。マイケルさんは「今ではちゃんと海に浮くカヌーは、パラオにはいくつも残っていないだろう」と言います。

  

 美代子さんはこのカヌーでマイケルさんと夕日を見に海に出るのが大好きです。そういう日には、美代子さんは学校から大急ぎで家に帰って、残りご飯で梅干のおむすびを作ります。マイケルさんは釣りの支度をします。釣りの餌は残り物の小さな魚の切れ端です。そしてワインのびんを持って二人で西の海に漕ぎ出すのです。岸から遠く離れ、船の航路も避けた静かなところで碇を降ろして釣り糸を垂れ、雲を焼け焦がしながら沈みゆく太陽を言葉もなくただ見つめます。夕方のこの時間は凪で風もなく、海はガラスのように真っ平らです。燃える太陽を写して、海も空と同じように赤黒く輝きます。小さなカヌーはまるで火の海に浮かんでいるように見えます。どこかの島から帰ってきたスピードボートの人々が二人に手を振って通り過ぎて行きます。逆光でどこの誰が乗っているのかわからなくても、二人は手を振って応えます。パラオの人たちは驚くほど遠目が利くので、向こうからはちゃんと見えているのですから。夜の漁に出る漁師たちが、沖に向かって出て行きます。誰かが唄う島の民謡が、夕凪の海を渡ってきます。魚が釣れると、美代子さんがカヌーの上で刺身を作ります。魚がまったく釣れなくて、ワインと梅干のおむすびだけの夕食になってしまうことも多いのですが、それでも良いのです。息を飲む夕焼けの美しさが何よりのご馳走です。

岸壁に群れるイカ
手作りの擬似餌
2010 - present
2010 - present
夕陽見物
イカ釣りの岸壁
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